渇き

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 志野原先輩に好きだと伝えたあの日から二週間が経ち、梅雨はすっかり明け季節は夏になっていた。
 衣替えをし、半袖のシャツから出ている肌に焼け付くような日差しと湿気を帯びた空気がまとわり付き、不快だ。
 後から後から吹き出る汗で身体はベタベタとして、他人とくっ付く事なんか考えただけでウンザリする。
 そんな暑さの中でも、俺は志野原先輩を抱きしめている。
 抱き合えば暑苦しく、じっとりと噴出してくる汗は気持悪いのだが、そんな事どうでもいいくらいに先輩を抱きしめる事が出来るのが嬉しかった。
 人の温もりに飢えている先輩は、これまでの寂しさを埋めるように俺に温もりを求める。
 震えながら・・・
 遠慮がちに・・・
 志野原先輩に対して何かしてあげられる事が有るのが嬉しかった。
 とても甘い感覚だった。
 俺の気持を知って、先輩は随分と落ち着いたと思う
 寝る時に泣く事がなくなり、俺を避ける事も無くなった。
 仲の良い子供が一緒に寝る感覚で寝ている。
『お前、肝が据わっているな。自分の身体を狙っている人間とよく平気で同じベッドで寝られるものだよ』
 兄の竜也から感心されてしまった。
 別に俺は肝が据わっているわけじゃない。
 ただ知っているのだ。
 志野原先輩が俺を襲わない事を・・・
 俺とSEXしたいとか、今にも襲うみたいな事を言っていたが、そんな気配今まで一度も感じた事なんかない。
 本気で相手を喰う気になっている人間からは、上手く隠そうとしても出てしまうものだ。
 そういう気配が・・・
 叔父のクラブで何度か襲われそうになった事が有る。
 男ではなく女性に・・・
 最初自分が感じた信号の意味が分からず、ただ不安だったが、何度もそういう目に遭って分かるようになった。
 自分を喰おうとして狙っている人間かどうかが・・・
 先輩は俺が欲しくて欲しくてたまらなかったのだろう。
 でも、どうすれば手に入れられるのか分からず、焦って苛立って身体を繋げてしまおうかと考えたのかもしれない。
 今はもう、俺の気持を知っている。
 手に入ったのだから落ち着いたはずだ。
 それに、多分先輩はSEXが嫌いだと思う。
 心が凍えそうになるとか、グチャグチャして気持悪いとか、先輩にとってSEXは良いモノではないように思えた。
 そんなモノを今無理してやるはずがない。
 バランスを崩した心を立て直すに必死なのだから。
 心のバランスが保てるようになり、余裕が出て来た時、まだ俺とSEXしたいと言うなら応えたいと思う。
 気持を告げたあの日は先輩を助けたい一心から勢いで『してもいい』と言ってしまっていた。
 言葉に嘘偽りなんかは無かったが、何も知らずに言っていた分空々しい感じがした。
 今は違う。
 調べたのだ。
 男同士での方法を・・・
 知る必要が有ると判断した事は、調べる癖が付いている。
 自分を良く見せようと努めていた頃の癖が・・・
 だから恥じを忍んで兄の竜也に訊いてみた。
 兄は目を丸くして驚き、硬直してしまった。
 俺は知らないと必要以上に不安になったり恐怖を感じそうで恐い事と、ある日突然やって来るかもしれない事態に心の準備をしたいのだと告げた。
 兄は眉間に皺を作り、目を瞑ったまま暫く考え込むと
『俺は詳しい事は知らないから詳しく知っている人間を紹介してやる』
 そう言って、叔父のクラブでその人物に引き合わせてくれた。
 叔父の店は人の識別が出来る程度には明るいが、とても暗いのだ。
 現れた人物の顔はやはり分かり辛かったが、美形なのは分かった。
 頭一つ分小さいその人は『初めまして。マサヤです』と言って微笑んだ。
――様に見えた。
 叔父の店が暗い事に感謝した。
 きっと明るい場所では恥ずかしくて話をするどころか、顔さえまともに見る事が出来なかったと思う。
 俺の緊張を察してか、マサヤさんは今日やらかしてしまった失敗談を話し始めた。
 話の内容は何処にでもありそうなものだったが、マサヤさんの語り口調があまりにも面白く、思わず吹き出してしまった。
 場が和んだ事を感じ『俺に訊きたい事があるんだろ?』と切り出した。
 俺は勇気を振り絞って口を開き『あっ』とか『あの』とか何度か繰り返した後、漸く質問をする事が出来た。
 マサヤさんは気さくに何でも話してくれた。
 お陰で俺は知りたかった事を全て知る事が出来た。
 別れ際に『何か知りたい事・・・相談でも何でもいいから俺の事を思い出した時にでもかけてきな』と言って名刺をくれた。
 名刺には片仮名でマサヤと書かれている他は、携帯電話の番号とメールアドレスが書いてあるだけだった。
 一応名刺は財布に入れたが、当分使う事はない気がした。
 志野原先輩が心のバランスを取り戻すその日までは・・・





 七月に入り一学期も残りわずかとなっていた。
 志野原先輩は一学期にかなり休んでしまっている為、二・三学期は一日も休まないようにしなくては留年するかもしれません。
 半分脅しで言ったが、先輩は『お前と同級生になれるならそれもいいかもな』と笑った。
 冗談ではないと怒って見せたが、先輩は笑った。
 先輩も本気ではなかったのだろう。
 その証拠に一学期の体育の授業で一度もプールに入らなかった付けを払いに、放課後補習を受けに行っている。
 今日も確か補習を受けていたはずだ。
 先輩の泳いでいる姿を一目見ようと、教室を出て校舎脇のプールに向かった。
 校舎を出て少し歩くと、人の声と一緒に水の弾ける音が聞こえてきた。
 プールサイドに張り巡らされている網状のフェンスの穴から先輩の姿を探した。
 プールサイドの上に上がっている人の中に先輩の姿はなく、泳いでいる人の中から先輩の姿を探していると、不意に勢い良く水しぶきを上げて水面から一人の人物が姿を現した。
 ポタポタと水滴を落としながらゆっくりと近付いてくる。
 色素の薄い髪は濡れている所為か、何時もよりも濃く見える。
 少し痩せすぎた身体は水に濡れて光っていた。
 何時も俺に見下ろされているその人は、俺の肩位までの高さのあるプールサイドから俺を見下ろして笑った。
「お前を見下ろすのって変な感じだ」
 フェンスギリギリのところでしゃがみ込み、俺と目線を近付けようとするが、それでもまだ相手の方が随分と高かった。
「迎えにきてくれたのか?」
「志野原先輩の泳いでいるところを見に来たんです。もしかしてもう終わっちゃいましたか?」
「丁度今終わったところだ」
「なんだ残念。先輩の泳いでいる姿見たかったのに」
「別にわざわざ見るほどのもんじゃねーよ」
 先輩は濡れた髪を鬱陶しそうに掻き揚げた。
「見たいな・・・先輩が泳いでいるところ」
 ニッコリ微笑んで頼むと、先輩は困ったような顔をした。
 髪を掻き揚げた手をそのまま後ろに流し、後頭部を掻いた。
「一回だけだぞ」 そう言ってプールの方へ歩いて行った。
 コースが空くと勢い良く飛び込み、そのままクロールで泳ぎ始めた。
 綺麗なフォームだった。
 そして力強い泳ぎだった。
 ついこの間まで死にそうになっていた人間とは思えないほどに・・・
 しなやかな身体は滑るようにして進んでいく。
 キラキラと水しぶきが舞い、綺麗だった。
 泳ぎに見とれていると、あっという間に先輩は二十五メートルを泳ぎきってしまった。
 勢い良く水から上がる先輩の前に、紺色のジャージを着た体育教師が立ちはだかった。
「こんなに泳げるくせに何故水泳部に入らん!」
 腕組みをし、しかめっ面で言う体育教師に冗談ぽく笑いながら「俺、水恐怖症なんです」と言い、スルリと教師をかわし、俺の方に歩いて来た。
「直ぐに着替えるから待っててくれ」
 そう言うと先輩はプールサイドから姿を消した。
 俺はプールの出入り口の見える日陰に避難して先輩が現れるのを待った。
 ジリジリと蝉のなく声が暑さを倍増させる。
 吹き出す汗を腕で拭い、
 胸元のシャツを扇ぐように引っ張り、風を入れるが焼け石に水だった。
 喉がカラカラして何か飲みたいと思った丁度その時、出入り口から先輩が姿を現した。
 俺の姿を見つけると小走りで近付いて来た。
「待たせたな」 そう言いながら右手でスポーツタオルを持ち大雑把に頭を拭いた。
 急いで出て来たのだろう。
 髪から水滴がポタポタと落ち、首周りを濡らしていた。
 水気を帯びたシャツは肌に吸い付き、肩から鎖骨にかけてクッキリと身体の形を表していた。
 喉の奥がカラカラした。
 カラカラし過ぎて、先輩の濡れている部分が美味しそうに感じた。
「光?」
 先輩は無言のまま立ち尽くしている俺の目の前に手をかざし左右に振った。
「大丈夫か?」
 俺は我に返り「すみません」と謝った。
「暑さにやられたか?」 悪戯っぽく笑いながら訊いた。
「そうかもしれません」
 喉が・・・渇きました。
 訴えると先輩は「売店で何か買ってやるから行こうぜ」と校舎に向かって歩き出した。
 売店に一番近い中央玄関前に入った時だった。人の声に呼び止められた。
「おい、志野原」
 声のした方を向くと見知らぬ生徒が2人立っていた。
 上履きの色が赤い事から先輩と同じ学年だと分かった。
「また、稔川と一緒なのか?何時も二人で妖しいなぁ」
「女に飽きて男に走ったんだろう?」
 からかうように二人は言った。
 ただの冗談だと分かっているが、俺は一瞬固まってしまった。
「バ―――カ、俺が女と一緒にいたらお前ら悔しいだろ?」
 フン、と鼻先で笑うようにして先輩は流した。
 二人は「ちげぇね―――や」と笑いながら歩いていってしまった。
「気にするな、ただの冗談だ。奴ら本気で言っている訳じゃない」
 優しく微笑んだ。 何故か落ち着かない気持になった。
 二年前、初めて叔父の店で出会った時の志野原先輩とダブって見えた。
 それは元の姿に戻ってきているという事なのだから、良い事のはずなのに・・・

―――喉の奥がカラカラした。
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