渇き

Index

  -5-  

 照りつける日差しの中、元来た道を戻り先輩の家に帰った。
 部屋に入り、喉の渇きを潤そうと冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに汲むと先輩が座っているソファの前にあるテーブルに置き、自分の分は置かずそのまま一気に飲み干した。
 先輩も釣られる様にコップを手に取り口を付けた。
 コップから口を離すと、独り言のように呟いた。
「俺、弓道をやっていたんだ」
 知っている。
 それはさっき葵澄生徒会長から聞いて知っていた。
 だが、その事は出さずに「そうなんですか」と返事をした。
「初めに弓道をやっていたのは晃の方なんだ」
「はい」
「筋がいいって・・・素質があるって、師範に言われたとか何とかって使用人たちが噂しているのをよく耳にしていた。暫くしてあの女が・・・晃の母親が俺にも弓道をやらないかって言ってきたんだ」
 ふと、晃君の言葉が頭をよぎって嫌な感じがした。
―――いたぶる為に引き取られた子供―――
「初めて誘われて嬉しかったんだ。だから、必要以上に頑張っちまって・・・馬鹿みたいに『的の中央に的中【てきちゅう】させられたら何かが変わる』なんて訳分からない自分ルールまで作ってよ・・・」
 先輩は自嘲気味に笑った。
「本気で信じていたんだぜ。的中させられたら何かが変わるって・・・だから頑張って練習した。保護者を呼んでの練習会で中白【ちゅうはく】に皆中【かいちゅう】・・・真ん中の白い丸に全部の矢を的中させたらあの女真っ青な顔してさ・・・」
 クシャリと顔が歪んだ。
「それ以降完全無視されたね。あの女は勉強でも運動でも晃が俺に敵わないから弓道ならって思ったんだろうな」
「それで先輩は弓道を辞めてしまったんですか?」
「引けなくなっちまったからな」
「え?」
「練習会以降調子が悪くなっちまって・・・」
―――弓は心で引くもの―――
 志水先輩はそう言っていた。
 継母を振り向かせようと・・・
 矢を的の中央に当てる事が出来れば、振り向かせる事が出来ると信じて
 頑張って
 頑張って
 そして・・・駄目だった。
 努力は実を結ぶ事は無く、心は折れてしまい弓を引く事が出来なくなってしまったのだろう。
「弓を引けない状態でずっと止まったままだったけど、お前が居てくれたら動かせる気がしたんだ」
 今にも泣き出しそうな顔で笑った。
 無性に先輩を抱きしめて上げたくなった。
「お前が居てくれて良かった」
 そう言い終える前に俺は先輩を抱きしめていた。
 一瞬先輩の身体に緊張が走り硬直していたが、直ぐに身体の力は抜け身体を預けるように俺にもたれ掛かってきてくれた。
「先輩好きですよ」
「有り難う・・・」
 少し震えた声で先輩は言った。




 紺野くんへの謝罪会(?)から一週間が経ち、俺は店の手伝いの為に家に戻った。
 昼間だというのに店にはお客の姿はなく、仏頂面をした父と見知らぬ人物が店先で将棋を指していた。
 父は眉間に皺を寄せ「う〜ん」と唸りながら指先で顎を摩り考え込んでいるようだった。
 町内では敵なしの父を苦しめている。
 今日の相手は余程将棋の強い人なんだろう。
 服装からすると若い・・・俺や竜也兄さんとたいして違わないくらいのように感じるが、俺に背を向けた状態で座っていて顔は見えない。
 骨格からして男性だろう。
 俺の存在に気が付いた父は目だけで俺を見た。
 父の視線を追うように、背を向けていた人物が振り返る。
「お帰り」
 微笑みながらごく自然に言われ、つられるように「ただいま」と返してしまった。
 見れば、謎の人物はやはり竜也兄さんとたいして変わらない、二十歳前後のように見えた。
 栗色の不揃いな短い髪はワックスか何かで動きを付けられセットされ、両耳には真っ赤なピアスが一つずつ付けられ、目を引く。
 中性的な顔は、柔らかく人当たりのよさそうな表情を浮かべている。
 どう見ても父の友達には見えない。
「光も帰ってきた事だし、おじさんこの勝負は預けるよ」
 俺を「光くん」ではなく「光」と呼んだ。
 誰だこの人は?
 以前に何処かで会っていただろうか?
 俺の記憶にこの人の情報は無い。 兄さんの友達だろうか?
 俺の反応に不審を感じたのか、目の前の男は一瞬眉をひそめた。
「もしかして光ってば俺の事忘れちまったのか?」
 やはり何処かで会っているらしい。
 必死に記憶をひっくり返して思い出そうとするが、思い出せない。
「すみません」
 素直に謝ると、男は俺の胸倉を掴み自分の口元に俺の耳を近寄らせ囁く様に言葉を発した。
「男を教えてやったのに酷いな」
 言葉が余りにも意味深でギョッとして身を引くと、男は悪戯っぽく笑った。
 もしかして・・・マサヤさん?
 以前会った時は薄暗い室内だったから顔をハッキリとは覚えていない。
 が、目の前の男がマサヤさんだとすれば『男を教えた』と言う言葉の意味も分かる。
「明るい所で見たらイイ男過ぎて分からなかったか?」
 冗談ぽく笑いながら掴んでいた胸倉を離してくれた。
 だが、今度は勢い良く抱きしめられた。
 何がなんだか分からずに固まっていると、聞き慣れた低い声がした。
「おい、人の弟に何してんだ」
 外から帰ってきた竜也兄さんはドカドカと店に入り、マサヤさんの襟首を掴み俺から引き剥がすかのように引っ張った。
「お帰り竜也」
「『お帰り』じゃねーだろ。何してんだよ手前は!」
「近くまで来たから、光から近況報告訊こうかと思ってさ」
 竜也兄さんは眉間に皺を寄せ、訝しげにマサヤさんを睨んだ。
「お前帰れ!」
 いきなり追い返そうとする兄にビックリした。
 兄は面倒見が良く、話を聞くのも上手い。
 訪ねて来た人をいきなり追い返す事はしないはすだが・・・
「何警戒してんだよ」
 マサヤさんはからかう様な笑顔で訊いた。
「いいから帰れ!」
 プルルルルル・・・
 兄の言葉を掻き消すかの様に電話が鳴った。
 それまで俺達三人のやり取りを黙って見ていた父が受話器を取った。
「はい、稔川酒店。ああ、なんだ竜一か・・・」
 竜一というのは父の兄で俺の伯父にあたる人で、クラブ経営しているテンション高めの叔父竜三と、何時も仏頂面していて愛想と言うモノに縁遠い父とを足して二で割った様な一番バランスの良い人だ。
 うちとは違い、店を何店舗も経営していて忙しい人なので顔は滅多に見せないが、電話は用事が有っても無くても良く掛けてくる。
 電話は直ぐに終わり、電話を切ると父は俺と竜也兄さんの顔を見た。
「お前達海に行きたいか?」
「海?」
 俺と兄さんが訊いたのはほぼ同時くらいだった。
「竜一が、Y市にある別荘に毎年夏に行っている事は知ってるだろ? 今年も行くはずだったらしいんだが、仕事でいけなくなったらしい。使わないと家は傷むから掃除がてらお前達に使って欲しいんだとよ。勿論バイト代は出すって言ってたぞ」
 俺と竜也兄さんは顔を見合わせた。
「俺行きたい!」
 俺や兄の代わりに答えたのはマサヤさんだった。
「お前は関係ないだろ」
 兄は窘める様に言うが、マサヤさんは気にもせず『皆で行こう』っと言った。
「達也と光と俺と光の大切な人と四人で行こうよ」
 突然の申し入れにギョッとしてしまった。
「何言っているんですか! 四人でなんて行きませんよ!」
「何で?」
「何でって、あの人はそういうのを好まないんです」
「ふうん、でも折角の夏休みに家にばっかり篭っているのは勿体無いな」
 言われるまでもない。
 俺だって先輩と何処かに行きたいと思ってはいるのだ。
 だが、先立つものは何もない上に、先輩は滅茶苦茶インドア派なのだ。
 いや、インドアと言うのとは違うかもしれない。
 外に出れば俺とおいそれとはくっ付けなくなるから、家に居たがっているだけかもしれない。
 それに、外に出ればとってどうでもいい人間が近寄って来て鬱陶しいと先輩は言っていた。
「好まなくても光が誘えば来るんじゃないのか?」
 確かに来る。
 俺が誘えばどんな所だって付いて来てくれる。
 それが分かっているからこそ誘い辛い。
 俺はあの人に無理はさせたくないのだ。
 答えを出せずに悩んでいると、父はやはり仏頂面で言う。
「竜一の用なんだから急いで返事しなくてもいいんだよ。四人でも三人でも二人でも何でもいいからな」
 マサヤさんが四人で行くと言ったので、二人と言う選択肢を忘れていたが・・・
 そうだ、二人で行く事も出来るんだ。
「俺はちょっと出るからよ。店番しがてら三人でちょっと話し合いな」
 そう言って父はダルそうに店から出て行った。
 残された俺たちは顔を見合わせ、暫く黙ったまま立ち尽くしていた。
 兄は何故か不機嫌そうな顔をしている。
 マサヤさんはキョトンとしている。
 俺は・・・多分困った顔をしているに違いない。
 妙に硬い空気が漂っている。
 その空気を壊すかのように言葉を発したのはマサヤさんだった。
「光、もしかして彼と一緒に行こうと思ってる?」
「そういう選択肢もあると考えているだけです」
「腹括ったんだ」
「えっ?」
「だって付き合っている奴から『二人っきりで旅行に行こう』って誘われたら『Hしましょう』って申し込まれたと受け取るよ。なぁ、達也?」
 振られて眉間の皺をより一層深くした。
「それはお前だけだろ」
「百戦錬磨のくせに何でカマトトぶるかなぁ?」
「ぶってねぇよ!」
 マサヤさんと兄とでは意見が別れる(?)ようだが、志野原先輩はどう思うだろう?
 俺自身にはそんな気全然まったくなく、友達同士で旅行に行くノリなんだが・・・
 先輩は俺が誘っていると思うのだろうか?
 仮にそう思ったとしたら、先輩は俺の為にやりたくもない事でもやるに違いない。
 やるのは構わない。
 先輩が望むならいくらでも答えたい。
 でも、俺も先輩も望まないのに勘違いで無理してやってしまった結果、先輩が傷付いたらどうしよう・・・
 だって先輩はSEXが嫌いなんだから。
 それだけは避けなければいけない。
 やっと落ち着いてきたところなんだから。
 二人きりよりも四人で行くと話した方が先輩に無用な勘違いをさせずに済むだろうか?
「マサヤさん、竜也兄さん、あの人が行くと言ったら四人で行っても良いかな?」
 二人は顔を見合わせ、ピッタリの呼吸で「良いに決まってんだろ」と言ってくれた。




 夜、店の手伝いが終わってから志野原先輩の住むマンションに行き、旅行(正確にはバイト)の事を話すと先輩は戸惑っていた。
 それはそうだろう。
 名前だけは俺の口から何度か聞いているものの、竜也兄さんと面識はまったくない。
 マサヤさんにいたっては、全く持って全然知らない赤の他人。
 そんな二人と、計四人で旅行に行こうなどと急に言われても困るだろう。
「先輩が嫌なら断ってくれて構いませんから」
「嫌じゃないけど・・・」
 嫌じゃないけど?
「俺なんかが行っていいのか? 光の兄貴にしてみれば可愛い弟を不毛な道に引きずり込んだ張本人だろ俺は。そんな奴と寝食を共にするのは嫌じゃないのか?」
「大丈夫! 二人とも先輩に会えるの楽しみにしているから」
 二人と言うのは嘘だった。
 マサヤさんは俺の彼氏に会えるのをスッゴク楽しみにしている風だったが、兄は何と言うか・・・興味なさそうな感じだった。
「光は行きたいのか?」
「別に伯父の別荘でなくてもいいんです。恋人同士になって初めての夏ですから普段行かないようなところとか行きたいと・・・」
 そこまで言った時、先輩が固まっているのに気付いた。
「先輩?」
 志野原先輩の顔は少し歪んでいた。
 まるで笑いを堪えているかのように・・・
「どうかしましたか?」
「恋人同士って俺達の事だよな?」
「他に誰がいるんです?」
「だって、恋人とかいうのは初めてだから・・・」
 そう言って先輩は真っ赤になった。
 可愛い。
 これまで沢山の女性と関係を持ってきたはずなのに、この初心【うぶ】さは何だろう?
 先輩が俺の存在に気付くまでずっと遠くから見ていたが、誰が傍にいても誰に言い寄られても興味等なさそうにどこか遠くを見ている風だった。
 表情一つ変える事は無くまるで感情が無い様だった。
 そんな人が、言葉一つに一喜一憂したりしている。
 本当にこの人は俺なんかに恋してくれているんだと実感し、感動で涙が出そうになる。
「先輩好きですよ」
 優しく微笑みながら言うと、先輩は真っ赤な顔をより一層赤くした。
「何だよ急に」
「今、スッゴク伝えたくなったんです」
 バカ野郎と言い、先輩は恥ずかしそうに俯いてしまった。
 恥ずかしい気持ちを処理する為か、きつく目を瞑り膝の上に置かれていた手を硬く握り締めた。
 暫くして目を開け俺を盗み見るように見た。
「光」
「はい?」
「旅行行くか・・・」
「はい!」
Novel TOP 優しい匂いTOP Next
Copyright (c) 2009 All rights reserved.