優しい匂いシリーズ

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白い記憶・黒い凍み-2-

部屋を出て行った次の日の朝、光は何時もと変わらない笑顔でおはようございます―――と言った。

表情、態度、何もかもが何時も通りだった。

出来た人間だとは思っていたが、流石だな。

自分の欲望を飲み込み、昨日の気まずさも無かった事に出来るのか。

俺は駄目だ。

お前が部屋を出て行った後、眠る事も出来ず、一晩中起きていた。

俺を気遣って部屋を出て行ったと分かっていても、拒絶感を拭えずガタガタだ。

今も、歪に笑っているのが分かる。

余裕が無い。

光は手を俺の頬に沿わせると親指だけで目の下をなぞった。

「昨日はすみませんでした。今日は一緒に眠りましょう」

目の下にできたクマを、痛々しい傷を見るように見る。

「一緒に寝てくれるのか?」

「はい」

優しく微笑む光。

その日の晩、光は逃げた隣の部屋から再び元の部屋に戻って来た。

部屋に入るなり、昼間海の家で食べたものの話や、あった出来事。

明日、別荘から自宅に戻ってから残りの夏休みをどう過ごすか等、次から次へと光は話題を提供した。

まるで沈黙を避けるように・・・

光と二人っきりで寄り添うように過ごせれば何でもいいと思っていたが、それが困難になり、俺も真剣に夏休みの過ごし方を考えた。

だが、光以外に興味の無い俺は何もしたい事は無かった。

映画、プール、水族館、カラオケ、ボウリング・・・

光が出した案に、俺はただ頷くだけだった。

明確に何時何処へ行くと言うプランが立たないまま夜は深け、眠りに付く為、二人でベッドへ入った。

何時もの定位置。

光は左、俺は右。

ピッタリと寄り添うように寝る。

光の胸に顔を埋める俺、俺を抱きしめる光の腕。

何もかも何時も通りだが、確かに距離がある。

目に見えない溝が俺たちの間に出来ているのを感じながら、その溝を埋める事も出来ずに俺達は眠った。






光の伯父が所有する別荘から見慣れた町に戻り、俺達はそれぞれの家へ帰った。

マンションに帰り、数日振りにドアを開けると、玄関に見慣れない靴が一足あった。

それが誰のものであるかなど考えなくても分かる俺は、深く溜息を吐いてからドアを閉めた。

荷物を玄関に置き、静かに部屋に入っていくが、居ると思っていたリビングには人影は無く、他の部屋、トイレやバスも覗いて見た。

だが、結局何処にもおらず、最後に残った寝室のドアを開けると、世界で一番苦手な生き物がベッドで寝ていた。

寝た子を起こすまねなどしたくない俺は、そっとドアを閉めて逃げようとしたが、ドアを閉め終わる前に「お帰り」と呼びかけられてしまい、仕方なく、閉じかけたドアを開き、ベッドの上に居る黒いものと対峙した。

黒いもの・・・

髪も目も、性格も腹の中も真っ黒な腹違いの弟。

志野原 晃【しのはら あきら】。

「何してんだ」

「今日帰ってくるって聞いたから待ってた」

「帰って来た事を確認したんだから、もういいだろ。帰れ」

「酷いな兄さん。黙って光と旅行に行っちゃうのも酷いけど、二週間振りに会う弟に対して『帰れ』なんて酷過ぎ。傷つくよ」

わざとらしく俺を兄と呼び、傷つくなどと薄ら寒い事を言い、晃は薄く笑った。

非難の言葉など無視し、「帰れ」と再び投げつけるが、晃は尊大で悪魔のような妖しい微笑のまま俺を見ているだけだった。

「おい!」

イラただしげに声を荒げるが、晃はお構い無しにベッドの上でくつろいでいた。

「アレまだやってなかったんだね」

「アレ?」

晃の言うアレが何を示しているのか分からない俺は、少し考えた。

だが、何も思い当たらない俺は晃を見た。

やれやれと言う感じに、晃は答えを口にした。

「性病検査チェッカー。夏休みに入る前に渡したでしょ?」

「あんなもの俺には・・・」

「必要ない?今まで何人と寝て来たと思っているの貢。自分がキレイな身体だと胸を張って言える?」

胸を刺す言葉に、息を呑んだ。

そう、俺の身体は何人もの人間と寝た汚いものだ。

言い返す事が出来ず、俺は黙ってしまった。

「夏休みになると、皆何故か大人の階段を登ろうとするから、先回りして用意してあげたのに酷いよね」

「お前が勝手にした事だろう。それに俺達の事はお前には関係ない」

言い放すと、晃は鼻の先で笑った。

「光とヤッた後に、貢が性病持ってたなんて事になったら、へこむの目に見えているから気を使ってやったんじゃないか」

「大きなお世話だ」

「で、光とヤッちゃった?」

「それこそお前に関係ない」

言い捨てるように言うと、晃はクスリと笑った。

「出来なかったんだ」

この黒い生き物は、勘が良いのか、人の表情を読むのに長けているのか、隠したいものほどよく言い当てる。

本当に憎らしい。

俺が黙ったままそっぽを向くと、晃は愉快そうに笑った。

「失敗して良かったじゃん。ちゃんとキレイかどうか確かめてから光の前に立てば」

光としたくない。

出来ないと思っている俺は、SEXに対しての準備など必要ないと心で吐き捨てる。

決して声に出していないのに、目の前の黒いヤツは見透かしたように言う。

「今は光の事を拒めていても、いずれ受け入れるんだから」

俺はただ、黙って不機嫌な顔をしているだけなのに、晃は心を見透かしているかのように言葉を紡いで行く。

「だって、貢自身が光を欲しがっているんだもん」

拒みきれる訳がないんだよ―――そう言って晃は笑った。

黙ったまま下唇を噛み締めていると、晃は重い腰を上げ、ベッドから降りた。

「言いたい事言ったから帰るね」

「とっとと帰れ」

言葉を叩きつけるように言うが、言われた方は全然気にもせずに「バイバイ」と微笑みながら出て行った。







天敵が居なくなった後、俺はベッドに転がりぼんやりと光るの事を考えた。

初めて求められた夜。

あの時の光の顔を思い出すと身体が震えた。

俺は嬉しかったのだ。

自分だけでなく、光も自分を欲しいと思ってくれた事が。

全て何もかもを捧げたい。

求められるものを求められる通りに。

光には無条件で何もかも、心が許してしまっている。

嫌われる事が恐くて拒絶してしまったが、本気で拒んでなどいないから、それほど長くはもたない。

大きくて温かい手を失いたくない。

優しい目も、心を救う言葉をくれる唇も、何もかも俺だけのモノにしたい。

俺だけのモノにする為ならなんでもする。

嫌われない保障があるなら、こんな身体などいくらでも差し出す。

保障が無くとも、SEXをさせなければ別れると、一言言われただけで俺は次の瞬間にも身体を開く。

こんなに思いつめている。

光が俺を手に入れる事など簡単だ。

ほんの僅か、理性のタガを外し、少しだけずるをすればいい。

光も多分その事には気付いているだろう。

知りながらその手を使わないのは、あいつの性格がそれを良しとしないから。

だが、どんな人間でも欲の前では正直になる。

何時か、光も欲の前にひれ伏すかもしれない。

その時は俺も・・・覚悟を決めよう。

グラグラする。

まるで、不安定な縄梯子の上にでもいるようだ。

両端からお互いを求めて歩き出したが、俺は恐くて梯子にしがみ付き動けない。

光は安全を確認しながら、ゆっくり歩いてくる。

下手に動けば俺か、光か、あるいは両方が落ちてしまう縄梯子を。

俺までの距離は、もう、それ程遠くない。

確実にたどり着く事は分かっている。

たどり着いた後、光がその場に留まってくれる保証が無いから恐い。

俺を通り過ぎて行く事が想像出来る分、恐い。

だから、もう暫くだけ今の場所で立ち止まっていて欲しい。

一日でも、一時間でも、お前が俺のモノである時間を延ばしてくれ。

頼むから・・・







電話の呼び出し音が遠くから聞こえた気がして、目を開ける。

時計を見ると、時間が四時間経っていた。

光の事を考えているうちに何時の間にか寝てしまっていたらしかった。

鳴り止まない電話の呼び出し音。

もしかして、光からの電話ではないかと慌てて電話を取りに行く。

「もしもし」

逸る鼓動を抑え、平静を装って電話に出ると、受話器から「稔川です」と帰ってきた。

低く落ち着いた声。

期待していた名前を告げるが、声に覚えがなく、俺は困惑した。

「はい?」

あからさまに相手が誰だか分からないと言う風に、トーンの下がった声を聞いて、受話器の向こうに居る人間は軽く笑った。

『数時間前まで一緒に居たのに、もう忘れたのか?』

そう言われて、俺は漸くもう一人の稔川姓の存在を思い出した。

「竜也・・・さん」

『思い出してくれたか』

「何か用ですか?」

『光がな・・・』

光!?

俺の心臓は一瞬ギクリとした。

光に何かあったのではないかと、不安が胸に広がる。

『熱をだしてな。大した事はないんだ。日頃の疲れとかからきているだけだろうからさ』

軽い口調に、光の容態がそれ程酷くない事が分かり、俺は安堵した。

『そう言う訳で今日は行けないんだ。ごめんな』

「光は・・・」

『今は寝ている。起きたら電話させようかと思ったんだが、こう言う事は早めに知らせた方が良いと思って俺が電話した訳だ』

「そうですか。わざわざ有難うございました」

それじゃあ―――と電話を切るつもりが、思いがけない言葉を言われ、言葉を飲み込んでしまった。

「え?」

『大丈夫かと訊いたんだ』

俺は疲れや体調の変化を訊かれたのだと思い、体調は悪くないです―――と答えた。

『そうじゃなくて、うちのが居ないと眠れないんだろう?今夜一人になるが大丈夫かって訊いたんだ』

大丈夫な訳がない。

だが、駄目です―――などと言う訳にもいかないので嘘を吐いておいた。

『もしも、寂しくなったらうちに来てもいいぞ』

「え?」

『光も居るし、飯は俺が用意してやる。スキンヘッドの無愛想なオヤジが居るが、気のいい人だから平気だぜ』

光の兄竜也とは別荘に行った三日間でその人柄が分かった。

優しくて、気さくで、男気があっていい人だ。

光が何度となく兄貴自慢の様な話をした事があったが、実際に会ってその気持ちが少しは分かった。

オヤジさんには一度しか会った事がないからよくは分からないがいい人なんだろう。

光に無理をさせ、間違えた道に引きずり込んでいる張本人を受け入れようとしてくれている。

温かい人達だ。

光の温かさも、優しさも、真っ直ぐ正しい姿勢もよく分かる。

この人達と生きてきたからなんだ。

俺は光だけでなく、この人達も悪い事をしている。

俺はまるで疫病神だな・・・

そう思った、次の瞬間だった。

言葉に出せない気持ち悪さがこみ上げてきた。

頭の中に手を突っ込まれ、記憶をズルズルと引きずり出される様な感覚。

何かを思い出しているのに、何を思い出しているのか分からない。

気持ち悪い。

気持ち悪過ぎて、声が出ない。

立っている事も出来ず、俺はその場に崩れるようにしてうずくまった。

切る事が出来なかった受話器は、床に転がっている。

受話器から、声が聞こえる。

何かを叫んでいるようだが、俺にはその声は届かなかった。
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