優しい匂い
光サイド-2-
シノさんはトイレから戻るともと、座っていた席に座りカクテルを注文した。
ただ飲み物を飲んでいるだけで絵になる人がいるんだと感心した。
何気ない仕草の一つ一つが洗練された動きのようでかっこよかった。
俺がシノさんに見惚れていると、甲高い女性の悲鳴と物が落ちる音がした。
フロア中に鳴り響いていた音楽は止まり静まり返っている中、男が1人床に片腕をついて倒れていた。
その男の真正面には、いきり立った男が従業員に腕を捕まれていた。
「離せよ!クソッ!!ぶっ殺すぞ!!」
相当頭に血が上っているらしく、大声で喚き散らしている。
従業員の腕から自分の腕を引き抜こうと暴れているのを見て俺も手伝わなくてはと思いそちらの方に行こうと一歩踏み出した時だった。
「やめろ!!」
よく通る声が男を静止した。
「うるせぇ!!」
男は反発したが声の主を見たとたん大人しくなった。
「シノ・・・」
声の主はそれまでの儚い印象とは違い力強い絶対者のような風格があった。
誰も彼には逆らえない…そんな空気が張り詰めていた。
怒りで我を忘れていた男の身体から力が抜けていくのがわかった。
人を従えさせるだけの力がシノさんにはあるのだと驚いた。
一見女性に見間違えてしまうような線の細い人なのに・・・
「離せよ…」
声のトーンからもう暴れる様子はないと判断した従業員達は男の腕を離した。
腕を解放された男は「クソッ!」と吐き捨てながら出口へ歩いて行った。
倒れていた男のもとに友人らしき人間が近寄り男を立たせた。
それをきっかけにそれまで止んでいた音楽が降り始め、張り詰めていた空気は和らぎ、出て行った男以外は皆もとに戻ったように思えた。
シノさんはカウンターの席に座り直した。
彼の周りを包んでいる空気だけはまだ張り詰めたままだった。
炎のような人だと思った。赤ではなく蒼い・・・
「光くん!」
ハッとして声のした方を見ると叔父が手招きしている。
「なんですか?」
「コレあちらの彼に…」
目で相手を指した。
シノさんに?
「場を静めてくれたお礼に…」
見れば渡されたカクテルはシノさんが何度か注文していたものだった。
言われた通りにシノさんにカクテルを運びお礼を言った。
シノさんはこちらを見ようともせずに「ああ…」と返事をしただけだった。
もとの作業に戻ろうとした時だった。
シノさんが胸のポケットからタバコを取り出し咥えたので思わず手が出てしまった。
しまった!
そう思った時は既に遅かった。
シノさんの口からタバコを奪っていた。
「何だよ?」
「タバコとお酒を一緒にやると身体に悪いです」
つい言ってしまった。
余計なお世話だと分かっていたが、どう見てもシノさんは俺とたいして年が離れているようには見えなかった。
成長期に酒もタバコよくないし、両方を一変にするのは身体に大変悪い。
そんな事俺が言わなくても分かっているはずだ。
分かっててそうしている人間に当たり前の事を言った。
怒っただろうか?
「知っているよ…」
静かな声だったがこの大音量の中でもしっかり聞き取れた。
シノさんとと目が合った。
色の薄い瞳が俺を映している。
シノさんに見られていると思ったら、急に呼吸の仕方を忘れたかのように息苦しくなる。
どぎまぎしてシノさんから目をそらすと、その一瞬の隙を突いてタバコを奪い取ろうと手が伸びてきた。
「駄目です。タバコなんか止めて下さい」
「それ吸っていると気分が落ち着くんだ」
「気分が落ち着こうが、ハイな気分になろうが、こんなものは百害あって一利なしです! 吸っちゃ駄目です!!」
俺が熱く説いていると女性の声が割って入って来た。
「ちょっと! 店員が客になに説教たれてんのよ!!」
見ればさっきシノさんと交渉していた三人のうちの一人だった。
確かにこの人の言う通りだった。
俺は今この店の店員で、お客様であるシノさんに店内でのマナー以外で注意をするべきではない事は分かっている。
でも・・・
「オイ、俺は今コイツと話をしているんだ余計な口挟むなよ」
シノさんに窘められ女性は驚いていた。
それはそうだろう。
女性はシノさんを庇ったのに感謝されるはずが逆に怒られてしまったのだから・・・
女性は「何よ!」と吐き捨てるように言ってその場から離れた。
「それで?」
「えっ?」
「もう終わりか?」
この人は・・・叱られたいのだろうか?
俺はニコチンの悪害性とアルコールの多量摂取の危険性を説いて聞かせた。
シノさんは何故か嬉しそうに俺の話を聞いていた。
「光、時間だ上がるぞ」
兄さんに言われて初めて日付が変わっている事に気が付いた。
今日は土曜日で明日は休みだったが、叔父は中学生と高校生を明け方まで働かせる事をよしとは思わなかったようだ。
「すみません。もう、上がる時間なんで…」
そう告げると「なら俺も帰るかな…」そう言ってシノさん席を立った。
レジで清算を済ませ出て行く後姿を見送った後、何気なくシノさんが座っていた席に目をやった。
タバコとジッポが置き去りにされていた。
タバコは兎も角、ジッポはシリアルナンバーが入っている。
大切な物かも知れない。
そう思いシノさんの後を追いかけた。
フロアと廊下を遮る重い扉を開けシノさんの姿を探した。
丁度廊下の角を曲がる人影が見えた。
急いで曲がり角に向かって走った。
角を曲がるとシノさんの姿が見えた。
「待って!シノさん!!」
名前を呼ばれてシノさんは足を止めゆっくりとこちらに振り向いた。
カウンターに居る時は段差などがありよく分からなかったが、シノさんは俺よりもずっと背が高かった。
180cmくらいはあるだろうか?
俺は傍に駆け寄りジッポを差し出した。
「ああ・・・コレもういらないんだ」
「えっ?でもコレ結構高価なものでしょ?」
「もう止めるから」
「え・・・?」
「タバコは身体によくないんだろ?」
「はい!」
もしかして、俺の話を聞いて禁煙する気になってくれたのだろうか?
「よかったらお前にやるよ」
「頂けませんよ!!」
「要らなければ捨てればいい」
「じゃあな」と言ってシノさんは踵を返そうとした。
「アルコールの量も控えて下さいね!」
俺にそう言われてシノさんは俺に向き直った。
「変な店員だな」
そう言って右手で俺の額から前髪をどかした。
シノさんが近付いてくる・・・
思った次の瞬間、額に軟らかい感触があった。
自分に何が起こっているのか分からなかった。
額にキスされているのだと自覚するまで時間がかかった。
シノさんが俺から離れたと同時に心臓が急激に早鐘を打ち始めた。
「有難う」
それまで無表情だったシノさんが優しく微笑んだのを見て、俺は力が抜けた。
シノさんが踵を返したと同時に俺はその場に崩れるように座り込んでいた。
シノさんの背中が遠くなっていくにもかかわらず俺の心臓は何時までもうるさいままだった。
その日以来叔父のクラブに酒を卸す度に店内をのぞいて見たが、シノさんの姿はなかった。
あの人の目や鼻や口、髪の毛の細部に至るまですべてが残像として強く焼き付いて頭から離れなかった。
もう一度会って話をしてみたい。
彼に近い存在になりたいと思うようになっていたが
結局二度と叔父の店でシノさんに会う事はなかった。
そして二年の月日が経った。
Copyright (c) 2009 Akito Hio All rights reserved.
