渇き

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  -8-  

 どうして恋しているなどと思ったのだろう。
 何故気付かなかったのだろう。
 これが恋ではないという事に・・・
 答えは簡単だった。
 俺は今まで一度たりとも恋をした事がなかったのだ。
 稔川の家の一員になるためにずっと勤勉実直な良い子を作っていた。
 血の繋がらない赤の他人の家で上手く暮らしていくには、何でも出来る良い子でなくてはいけないと信じていたのだ。
 だから俺は勉強でもスポーツでも何でも恥ずかしくない成績を取るためにがむしゃらに頑張っていたので、回りに目を向けている余裕が無かった。
 優等生の仮面をかぶり、本心を隠し決して汚い部分は見せなかった。
 人の目に自分がどう映っているか、人の顔色ばかり気にしてばかりいた。
 そんな事ばかりに気を取られ、他人など見ていなかった。
 中1の夏に起こった事件がきっかけで優等生の仮面を捨ててもよいという状況になったが、一度かぶった仮面をおいそれと外す事は出来なかった。
 だが、変な脅迫観念は無くなり心が軽くなった。
 少しずつ回りを見る事が出来るようになり、それまで判を押したように皆同じに見えていた顔が個性を持ち始めた。
 それでも、俺は誰かに関心を持つ事は無かった。
 母を亡くした事で、俺は早熟していたのだろう。
 同級生を始め自分の通う中学校の生徒は幼く見えた。
 皆、自分に与えられた環境を当たり前として甘えるだけ甘えた挙句、文句しか言わない。
 努力もせずに羨む事しかしない。
 彼氏彼女と言う言葉に憧れ、俺の事など知りもしないのに告白する人間。
 出来る男を連れていると言うステイタスが欲しいだけの人間。
 恋など出来るはずがなかった。
 恋だけではない。
 何でも頑張るクセが付いてしまっていた俺は、勉強も運動も1番だった。
 やれば出来る男だったのでライバルと呼べるような人間はいなかった。
 出来ないからと言って見下す事はしなかったが、自分と同等あるいは上の人間が側にいなかったので物足りなさは感じていた。
 友達・・・と呼べる人間もいなかった。
 同級生達と挨拶もすれば話もするが、それだけだった。
 悩みを打ち明けられるような人間は1人としていなかった。
 特別嫌いな人間はいなかったが、父と兄以外に特別好きな人間もいなかった。
 無関心だったのだ。
 誰もどうでもよかった。





 初めて他人に心を動かされたのはあの時だろう・・・
 叔父の経営するクラブでシノさんを見た時。
 中性的な顔立ち。
 人を圧倒する雰囲気と従えるだけの力。
 蒼い炎のような人。
 たった一度・・・しかも暗がりで会っただけの人なのに、目や鼻や口髪の毛の細部に至るまですべてが残像として強く焼き付いて離れなかったのはきっと本能で知っていたのだ。
“敵わない”と・・・
 全てにおいて俺を打ち負かす事の出来る人間だと、本能で感じ取っていたのだ。
 だから心が動かされた。
 惹かれたのだ。
 二年前に叔父のクラブで会ったままのシノさんに会っていたなら、間違いなく恋していた。
 同性とか気にも留めずに・・・
 気など留める事なんか出来るわけがない。
 なぜなら、志野原 貢は生まれて初めて出会った自分を凌駕出来る人間なのだから。
 だが、二年後再開した時のシノさんは生きながら死んでいる状態だった。
 家族と言う群れに入ろうと努力して・・・努力して・・・無視され。
 押して駄目なら引いてみようと悪さをして・・・無視された。
 見た目の良さと金回りの良さに群がってくるくだらない人間。
 誰も志野原 貢と言う人間を見なかった所為で、あの人は自分は愛されない存在だと思ってしまいボロボロになってしまっていた。
 そんな彼を見て俺は同情したのだ。
 何故なら彼はもう1人の自分だったから・・・
 家族と言う群れに入れなかったもう1人の俺だったのだ。
 人事には思えなかった。
 だから俺は彼に優しくしてあげたかったんだ。
 きっかけは憧れていた人の異変を見て怖くなったからだった。
 誰かが・・・俺が優しくしなくては死んでしまうのではないかと思い、動いた。
 最初は無視されていたが、彼に助けて欲しいと手を差し出された時は喜んでその手を取った。
 彼の望むまま、俺の出来る範囲で何でもした。
 少しずつ彼が元気になっていく様子を見て嬉しかった。
 本当に嬉しかった。
 でも、それは恋や愛からくる感情なんかではなかった。
 可哀想なもう1人の自分慰める事で満足していただけ・・・
 それなのに恋をしていると錯覚してしまったのは、キスする事が出来たから。
 命がかかっていればあんなモノいくらでも出来るというのに・・・
 俺のキスなんか、人工呼吸となんら変わる事はない。
 しなければ死ぬと言われれば兄の竜也とだって出来る。
 その程度のモノだったのに・・・





 マサヤさんが志野原先輩に好意を持っていると知らされても、他の誰が先輩を好きでも平気だったのは先輩が俺を好きだと信じていたからではない。
 ただ俺が恋をしていなかったからだ。
『光自身はシノに対して何もないの?』
『シノが浮気したらとか思わないの?』
 マサヤさんの気になる質問の意図はそれを確認するためだったのだろう。
 俺は自分を心が広く、性欲の薄い人間だと思っていたが、それも違う。
 求められたら応えたい―――
 先輩が好きなのは俺だから大丈夫―――
 先輩が望んだ訳でないなら、誰かと関係しても先輩に怒りを覚えない―――
 恋をしていないから言える台詞だ。
 恋をしていたなら自分から求めるだろう。
 仲の良い子供が一緒に寝るような感覚でなんか寝られるはずがない。
 誰かに狙われていたらそれだけで気が気でない。
 ましてや関係を持ってしまったら平然となんかしていられるはずがない。
 そんなもの、先輩と俺の温度差を見れば分かってもいいはずなのに
 バカな俺はそんな事にも気付けなかったのだ・・・





 志野原先輩は俺を襲うと言った。
 だがそれは、俺を誰かに取られたくなくて出た言葉だと思う。
 俺を誰かに取られないと安心してからは一度もそんな事は言わなかった。
 勿論行動にも起こさなかった。
 先輩は俺を本当に好いてくれている。
 それは分かる。
 でも、先輩は恋がしたかったわけでも恋人が欲しかったわけでもない。
 欲しかったのは愛情。
 損得勘定無しに与えられる愛情。
 そして温かい場所。
 家族と言う名の温かい場所。
 始まるとか終わるとか、燃えるとか冷めるとか、恋とは正反対の安心できる場所。
 優しい匂いのする場所。
 俺ならそれを先輩に与える事が出来たはずなのだ。
 家族と言う群れを作る難しさを知っているから・・・
 そしてその大切さ、温かさ、安らぎを知っていたから・・・
 先輩にもあげたかった。
 何があっても味方でいてくれる存在。
 どんな事があってもサヨナラしなくていい関係を・・・
 先輩も俺に望んでいたのはそう言う関係。
 強い絆で結ばれた関係だろうに・・・
 俺は先輩の期待を裏切ってしまった。
 濡れた先輩を美味しそうに感じてしまったのも、喉の奥がカラカラしたのも全部先輩を好きになってしまったから・・・
 先輩を欲しいと身体が感じたせいで緊張し喉が渇いたに違いない。
 先輩が元気になっていくほど思い知らされた。
 二年前出会ったシノさんと先輩が同一人物だという事。
 今まで勉強でもなんでも人に負ける気などしなかったのに、先輩には勝てる気がしない。
 敗北感を感じて悔しむべきなんだろうけど、嬉しくてしょうがない。
 俺よりも小さくて細いのに、強い人。
 勉強も運動もそれ以外の何もかも俺より上位に立っている男。
 しかも美しい顔と肢体を持っている。
 こんな素敵な人間が存在している事が嬉しい。
 そしてその人間は俺の傍にいて俺を好いてくれている。
 奇跡のような事だ。
 好きにならない理由が見つからない。
 恋に落ちないなんてありえない。
 心がざわつく。
 ああ・・・気付かなければよかった。
 そうすれば先輩の望むものを与えられたのに・・・

 気付いてしまった。

 始まってしまった。(いずれ終わりがくるかもしれない)

 燃えてしまった。(いつかは冷めてしまうかもしれない)

 ゴメンナサイ。

 あなたを好きになってしまいました。

 ゴメンナサイ。

 あなたに恋をしてしまいました。

 ゴメンナサイ。

 あなたの望む、温かくて優しい匂いのする場所は与えてあげられそうもないです。

だってもう目覚めてしまったから・・・


俺の雄が・・・

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