優しい匂いシリーズ

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白い記憶・黒い染み-8-

車が見えなくなり、マンションへ戻ろうと向き直り、ニ・三歩歩いたところで足を止めた。

駅前の薬局屋へ行く事を考える。

覚悟は正直まだ決まっていない。

だが、検査結果が出て、SEXの問題点も分かりこれ以上自分への言い訳が立たなくなってしまった。

何より待たせた事によって、光に嫌われるかもしれないと思うと身がすくむ。

次に求められた時には、応えられるように用意だけはしておいた方がいいだろうと、俺は方向転換をし、駅前の商店街に向かって歩き出した。

歩きながら、俺はリーゼの助言について考えた。

『愛を囁いて、大事に抱いてやれば大丈夫だ』

愛を囁くのは、まぁいい。

だが、大事に抱くのは・・・・・・。

多分、絶対、抱かれるのは俺の方だよな?

なら、大事に抱かれる・・・のか?

どうやって?

新しい下着を身に着ける・・・とか?

優しくしてねと瞳を潤ませながら言う・・・とか?

いや、そういう事ではなく、アレか。

光のアレを丁寧にアレしたりとか、そっち系か?

などとグルグル考えている間に、商店街入り口までやって来ていた。

夏休みのせいか結構な人で、アーケード街に入る前から、呼び込みの声や店から漏れ出ているBGMが聞こえてくる。

人を避けながらアーケード街を進んでいくと、パチンコ屋やゲーセンの電子音に混じって、何処か遠くからヒステリックな女の叫び声が聞こえてきた。

何処かでイカレた女が騒いでいるのだろうと、気にもせずに目的の薬局屋のあるアーケード奥へ進む。

進めば進むほど女の声は近付き、とうとう声の主が視認できる距離まで来ていた。

距離があるのと疎らな人影に遮られているせいで、女が何を騒いでいるのかは分からない。

何を喚いているのか、注意して聞けば分かるかもしれないが、知りたくもないし、知る必要もない。

俺には関係ない事だ。

無視して歩みを進めて行く。

声との距離が縮まり、通行人が女を避けていた所為で、女の足元にいたものが見えた。

子供だ。

五・六歳の子供が、二十代後半くらいの女に叩かれていた。

子供は泣きながら「ゴメンナサイ」と暴力が止む事を祈るように必死で謝っている。

謝罪の言葉が聞こえない訳がないのに、女は暴言を吐く事も、叩くのを止めない。

女と子供の間に何があったは知らない。

もしかしたら、子供が何か悪い事をしたのかも知れない。

だが、誰がどう見ても女の折檻は行き過ぎている。

通行人は遠目に顔を顰めるが、それだけだ。

酷い事をするとコソコソ言い合うだけで、女を止める事はしない。

当たり前だ。

他人の面倒事に自ら進んで首を突っ込むなんてバカのやる事だ。

他人の事など、どうでもいい。

・・・そう、思うのに。

何で俺は、女の腕を掴んでいるんだ?

「ちょっと! なんなのよアンタ!!」

子供を叩いていた手を掴まれ、ヒステリー女は鬼の形相で俺を睨んだ。

「止めろよ。もう、そのガキ謝ってんだろ」

「他人【ひと】の家の躾に口出ししてんじゃないわよ!!」

女は醜く歪んだ顔を更に歪ませ、凄む。

「口出しされたくなきゃ、程度を弁えろ。子供は親の所有物じゃないんだよ」

掴んでいた腕を捻り上げると、女は盛大に痛がった。

他人の痛みに疎い奴ほど、自分の痛みには敏感なものだ。

「痛い。痛い。痛い。手ぇ放してよ! 女に暴力振るうなんて、最低じゃない!」

「子供に暴力振るってる大人が何言ってんだ」

「私はいいのよ。この子の親なんだから!」

親だから?

どんな理屈だよ。

腹が立ち、捻っていた腕を更に捻ると、女は「痛ーーーい」と悲鳴のような声を上げ、挙句「放せバカ! 人殺し! 誰か助けて!」と騒いだ。

子供が必要以上に叩かれていても無視しているような連中が助けに入るわけもなく、女は無視された。

ただ一人の人間を除いて。

「ママをいじめないで」

先程まで女に叩かれていた子供が足にしがみ付いていた。

自分よりもずっと身体の大きな男が怖くない訳がないのに、怯えた瞳で俺を見据え、ありったけの勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。

「ママを放して・・・ください」

「放したら、またお前を叩くかもしれないぞ」

子供は女の暴力を想像し、身体を強張らせるが、恐れを払拭するように握りこぶしに力を入れ、大きく胸を上下させ荒い呼吸を繰り返しながら俺を直視した。

「僕は・・・大丈夫だから、ママをいじめないで」

いじめないで?

違うだろう。

苛められているのはママじゃなくて、お前だろうが。

ガリガリの身体に無数の傷や痣。

どう見ても日常的に虐待を受けている事に疑いはない。

酷い目に遭わされているだろうに、なのに何故このガキはこんな親を庇うんだ?

親だからか?

親なんか所詮血の繋がった他人だろうに・・・。

親なんか愛したって、愛し返してなんかくれないぞ。

お前が庇った事に感謝するどころか、逆にキレられる可能性が高いぞ。

分かれよ。

気付けよ。

早く諦めちまえよ。

バカなガキを目の前にし、苛立ちを覚えた俺は無意識に手に力を入れていた。

女は再び痛いと騒ぎ、受けている暴力への怒りを俺ではなくガキに向けた。

「何で、私がこんな目に遭うのよ! 全部あんたが悪いのよ!!」

「ご・・・ごめんなさい」

ガキは怯えたように身体を小さくし、消え入りそうな声で謝る。

「あんたが生まれてきた所為で私の人生滅茶苦茶だわ!!」

「止めろよ!」

女が俺の言いに従うわけもなく、それどころか最低の一言を吐く。

「あんたみたいな役立たず生まなきゃよかった!!」

―――存在の否定。

何もかも、全てを否定する言葉を聞き、ガキは絶望と悲しみに顔を歪めた。

そして俺は・・・

何故か、精神がグラついた。

不意に、頭の中を何かが過ぎ去った。

何かを思い出した気がするが、それが何なのか分からない。

あまりの気持ち悪さに、掴んでいた女の手を放し、一歩後ろに下がる。

グニャリ・・・。

足が骨を失ったように上手く立てず、バランスを崩す。

平行感覚が失われ、前だか横だか後ろなのかわからずそのまま倒れていった。

全てのものがスローモーションになっていく。

女は自分に危害を加えた男が倒れたのををいい事に、仕返しとばかりに足蹴にしながら何かを叫んでいた。

頭が朦朧としている俺には、女の声は遠く、痛みすらまともに認識する事は出来なかった。
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