優しい匂いシリーズ
白い記憶・黒い染み-9-
重い瞼を開くと木目天井が見えた。
何度か瞬きを繰り返し辺りを窺うと、時代を感じさせる古惚けた部屋に覚えのない横顔があった。
黒く真っ直ぐな髪は綺麗に整えられ、端整な顔立ちを隠すようにかけられた黒縁眼鏡。
僅かな乱れも無い清潔感漂う服装から受けた印象は委員長だった。
委員長・・・もとい男は本に落としていた視線を上げると、俺へと移した。
「気が付きましたか」
表情を動かす事無く平坦な声でそう言い、静かに部屋から出て行くと、少しして白衣を着た爺さんと戻ってきた。
男は部屋の隅に控え、爺さんは俺を覗き込むとペンライトで目を照らし、瞳孔を調べ、下瞼を引いたと思うと手を取り脈を診た。
ふむふむと頷くと、今度は俺に質問をしてきた。
「自分の名前は言えるかね?」
「・・・志野原貢」
答えると、続いて住所、電話番号等の個人情報を質問された。
それら全てに淀みなく答えると「記憶も意識もしっかりしているわい」と頷き、爺さんは隅に佇む男に向き直り「坊、今のところ問題無しですわ」そう言った。
男が礼を言うと、爺さんは「何かあればまた電話下さいな」そう言い残し、部屋から出て行った。
部屋に二人きりになり、状況が飲み込めない俺は男に尋ねた。
「此処は何処で、あんたは誰で、俺は何で此処に居るんだ?」
男は、神経質そうな眉根を寄せ、不愉快そうな顔を作った。
「此処は私の家で、私の名は葵澄雅孝【きすみまさたか】、貴方が此処に居るのは、私が家の者に運ばせたからです」
葵澄・・・何処かで聞いたような気がする。
名前を頭の中で反芻させるが、倒れた所為か、元々そんな名前を知らないだけなのか、全く思い出せない。
だが、目の前で人が倒れたとして、見ず知らずの赤の他人をわざわざ自宅に運ぶものか?
運ばないだろう。普通。
救急車呼んで終わりだ。
ならやはり、俺と目の前の男は知り合いなのかもしれない。
朦朧とする頭でそんな事を考えながら、男を見てみる。
男の目には好意的な色は無い代わりに、嫌悪の色もなく、ただ静かに俺を見ていた。
「動けるようになるまで安静にして寝ていなさい」
「もう動けるから帰るよ」
まだ上手く動かない身体を無理矢理起こそうとすると、男によって両肩をベッドへ押し付けられた。
「動くにはまだ無理があると判断して寝ていろと言っています」
「でもこれ以上迷惑かける訳には・・・」
「分からない人ですね。貴方に選択権なんてありませんよ」
無理矢理ベッドへ押し戻され、掛け布団を首元までしっかり掛け、寝かしつけられた。
「何か欲しいものがあれば言いなさい。持ってきてあげます」
文句、反論、その他抗うような言動行動は許さないと言わんばかりの硬質で冷たい視線だった。
頭も身体も重く、全てが億劫だった俺は、黙って言う事を聞く事にした。
態度から異論が無いと感じ取ったのだろう。
男は掛け布団越しに押さえつけていた肩から手をどけると、ベッド脇のチェスト上に置かれた本を取り、椅子へ座ると再び本へ目を落とした。
時計の秒針が鳴り響く静かな部屋で二人きりという気詰まりする状況で、男はただ黙々と本を読み進めていた。
俺は多少の気まずさを感じながら、目を閉じ眠りに付こうと試みる。
ふと、ある事が頭を掠め、男に声をかけた。
「なあ。あのガキはどうした?」
俺の質問に男は本から目をはずし、こちらを向いた。
「母親は貴方を蹴飛ばしていた事から、傷害の現行犯で警察に引き渡しました。子供は警察の方で保護して下さっています。同時に、子供の虐待防止センターと児童家庭主管課へ通報しておきました」
「そうか・・・」
良かったと、思えば良いのだろうか?
良くはないだろう。
問題が表面化しただけで何も解決されていないのだから。
「他人のしかも子供に出来る事なんてここまでですよ」
俺の表情から遣る瀬無さを感じ取ったのか、男はそう言った。
いや、男自身が遣る瀬無さを感じていたのかもしれない。
その証拠に男は酷く陰鬱な顔で俯き、溜息を吐いたのだから。
重い空気がその場にのしかかり、俺と男から言葉を失わせた。
俺は寝返りをうち、男に背を向けるとそっと眼を瞑り、そのまま思考を閉じた。
目を開けると部屋は暗く、静まり返っていた。
・・・静かなのは最初からだったかもしれないが。
何時の間にか眠ってしまったらしい。
目を凝らし、辺りを窺うが委員長の姿は無かった。
身体を起こし、壁掛け時計に近付き、見てみると針は九時を回っていた。
暗いんだから夜の九時だよな?
随分と長い事居座ってしまった。
いい加減帰ろうと、謝辞と謝罪を言う為に男を捜す事にした。
扉を開けると廊下に灯った明かりが眩しく、目に沁みた。
きつく目を閉じ明かりに慣れるのを待ち、目を開けると長い廊下が続いていた。
まるで志野原の実家の様だ。
どこの金持ちだ?
そんな事を思いながら、人気の無い廊下を当て所なく進んでいく。
窓明かりに照らされた庭を目にし、既視感を覚え、足を止めた。
何故だろう。
前にもこの風景を見た気がする。
はやり葵澄という男と俺は知り合いで、以前に此処に来た事があるのだろうか?
記憶を探るように庭を見た。
何処にでも・・・金持ちの家になら漏れ無くある気がする日本庭園。
志野原の家の庭に似ているだけのような気もするな。
「誰が起きて良いと言いましたか?」
突如投げかけられた質問の声に反射的に振り向くと、一メートルもない距離に黒縁眼鏡の男が立っていた。
何時の間に・・・。
「同じ質問を二度させないでください」
無表情な上、硬質で平坦な返答の催促。
無視すれば永遠にこの遣り取りが続くような気がするから怖い。
「別に誰にも言われてねぇけど、自分の身体の事くらい自分で分かるって」
「街中で倒れた人の言葉とは思えませんね」
「うるせぇよ」
煩わしげな表情を作り、お前には関係ない事だからほっとけと暗に示したが、男は意に介した様子も無くただ眼を細めただけだった。
「きなさい」
言うが早いか、男は踵を返し歩き出した。
俺の意思は無視か?
仕方なく男に続いて歩き出す。
「何処に行くんだよ」
問うと男は振り返りもせずに答えた。
「帰りたいのでしょう? うちの者に送らせます」
「いいよ。一人で帰るって」
「貴方此処から自宅までの道順が分かるんですか?」
・・・・・・。
言われてみれば確かに分からない。
分からないが・・・
「最寄り駅までの行き方を教えてくれれば何とかなるって」
男は足を止め、振り返ると疑わしそうな眼で俺を見た。
「それで今度は駅で倒れるのですか?」
「倒れねーよ!」
言ってはみたものの本当かどうか分かったものではない。
そんな俺の本心を見抜くように男は疑惑の眼差しを深め、抑揚ない声で告げた。
「いいですか、志野原貢。私は送らせてくれと頼んでいるわけではないんですよ。これは決定事項であり、貴方に選択権などありません」
他人の意思は無視しないといけない呪いにかかっているらしい男は再び踵を返し、歩き出した。
倒れていたところを助けられたという恩がなければニ・三発殴り、勝手に帰っているところだが、グッと堪え、男に従う事にした。
長い廊下が終わり、玄関で靴を履くと無駄に広い庭を突っ切り離れに連れて行かれた。
男が呼び鈴を鳴らすと中から足音が近付き、ドアが開くと部屋の明かりと共に二十代後半に見える男が出てきた。
黒のタンクトップにジーパンとラフな格好の男は一瞬こちらを見ただけで、すぐさま俺の隣に君臨している委員長様へと視線を戻した。
「雅孝さん。何か御用ですか?」
「啓治【けいじ】さん。この者を送ってもらえますか?」
伺う形になってはいるが、明らかな命令に啓治と呼ばれた男は柔らかな笑顔で答えた。
「今直ぐ支度します」
男は扉の向こうへ消えると言葉どおりものの数秒で支度を終え再び現れた。
何故だろう。
白いシャツに手袋。えんじ色のネクタイ。紺色のスーツと帽子。如何にも運転手といった姿になっている。
「さあ。行きましょうか?」
数秒で着替えた事も凄いが、夜であっても真夏だ。
全裸であっても暑いというのに、見ているだけでも暑苦しい格好で男は爽やかな笑顔でいる。
凄い。
本当に凄いが・・・。
意味が分からない。
俺を送るだけだよな?
なら、さっきのラフな格好でいいはずだよな?
それとも何か。運転する時は制服着用でないといけない鉄の掟か何かあるのだろうか?
言葉には出していなかったが、眼が全てを語っていたのだろう。
俺の疑問に気付いた運転手は苦笑いを浮かべ答えた。
「雅孝さんに恥をかかせる訳にはいきませんので」
だから、車で運ぶのは俺だけだよな?
再度心の中で突っ込みを入れたが、これ以上この件を掘り下げる事は止した。
何故なら俺は変態二人の相手をし、街中でヒステリー女と対峙し、ぶっ倒れ、本当に疲れていたのだから。
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