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優しい匂い

貢サイド-3-

 目を開けるとまぶしかった。
 何時なのか分からなかったが、窓から差し込む光からしてだいぶ日が高いようだった。
 時計を見るため、身体を起こすと頭が重かった。
 ベッドから出ようと立ち上がる。
 刹那。
 目の前が真っ白になり、一気に血の気が下がる。
 壁にもたれるようにその場に倒れ込む・・・はずだった。
 何かが俺を支えていた。
 身体に巻きついた温かいもの。それは力強い人間の腕だった。
「先輩大丈夫ですか!」
 こいつは・・・誰だ?
 腕の主は俺を抱きかかえてベッドへ運んだ。
「まだ横になっていた方がいいですよ」
「・・・・・」
「先輩?」
「お前・・・誰だ?」
「稔川光です」
「みのり・・・かわ・・・ひかる・・・?」
 モヤがかかっていた頭が急激にクリアーになっていく。
 そうだった。
 コイツは稔川光! 俺は何を寝ぼけていたのだろう。
 日にちの感覚も、時間の感覚もない俺は時計を見ようと急いで身体を起こした。
「先輩急に動いちゃ駄目ですよ!」
 時計を見ると既に針は午後の2時を回っていた。
 俺は半日も寝ていたのか?
 学校は既に五時間目が終わっている時間だ。
 今から行っても間に合わない。
 俺はよいが光には悪い事をした。
「悪かったな光。学校サボらせて」
「何言ってんですか先輩」
「え?」
「今日は土曜じゃないですか。学校はないですよ」
 俺は頭の中が混乱しているようだった。
 今日は・・・土曜日。
 今は二時三十五分。
 コイツは稔川光。
 光が家にいるのは・・・・抱き枕の為だ。
 頭の中を整理していくにつれ昨日の夜の事が思い出された。
 俺は泣き、しがみ付き、『嫌いにならないでくれ』と繰り返し哀願したのだ。
 何故そんな事をしたのか分からなかった。
 泣いた理由すらも・・・。
 昨日の事を考えれば考えるほど光に対して気まずくなり無意識に光から顔を背け目線を外した。
 ・・・・・何て言えばいいんだ?
『昨日のアレは何かの間違いなんだ』
『昨日の俺は俺であって俺でないんだ』
『睡眠不足の所為で精神がアレだったんだ』
 ・・・・。
 いくら考えても、良い言い訳が思いつかなかった。
 恥ずかしい自分を繕うための、情けない言い訳をグルグル考える。
「先輩お腹すきませんか?」
 急にそんな事を言われ、身体がビクッとした。
「俺何か作りますよ」
 何時もの人懐っこい笑顔で言われた。
「作るといっても、家には何も無いぞ」
「何も無いって・・・玉子の一個はあるでしょ?」
 それが無いのだ。
 確か、冷蔵庫にはビールとチーズぐらいしか入っていなかったと思う。
 その事を告げると、光は軽く溜息を吐いた。
「勝手に探して、作っちゃってもいいですよね?」
 言うや否やキッチンに向かって歩き出した。
パタン、パタンと扉を開閉する音が聞こえる。
小さな「あっ!」という声が聞こえた。
何か発掘でも出来たのだろうか?足音が近付いてくる。
「何とかスパゲッティを発見出来ました! けど、先輩今日までどうやって暮らしてきたんです?」
 呆れ顔で言われた。
「どうって・・・食事は外で済ませていたし・・・それに・・・」
 このところ食欲は全然無く、何を見ても美味そうだと感じる事も出来ず、腹は減るが食欲は一向に湧かなかった
「直ぐに作るから待っててください」
 そう言ってまた台所に消えて行った。
 水の流れる音。ガタガタと何かが置かれる音。色んな音が聞こえて来る。
 この家から人の気配を感じるなんて、変な感じがした。
 暫くして足音がベッドルームへ近付き、光が顔を覗かせた。
「先輩身体辛いでしょ? こっちで食べますか?」
「いや、そっちに行くよ」
「そうですか。それじゃ!」
 身体が宙に浮いた。
「おい!」
「先輩に倒れられたら困りますから」
 だからと言って大の男を軽く持ち上げるな。しかも姫さん抱っこで!
「暴れないでくださいね」
 そんな元気あるかよ。
 俺はされるがままキッチン前にあるテーブルまで運ばれた。
 椅子に座り、待っていると、スパゲッティが運ばれてきた。
 やはり美味そうには見えなかったが、光が折角作ったのだ食べないわけにはいかない。
 気は進まなかったがホークでスパゲッティを絡め取り口へ入れてみる。
 ・・・・・。
 普通だった。
 美味くはなかったが、気持ち悪くもなかった。
 昨日までは固形物を入れると、気持ち悪くて吐きそうになっていたのだが・・・不思議だ。
 俺は、淡々とスパゲッティを口に運んだ。
 部屋には、ホークが皿に当たる音だけが響く。
 食べ物が口を塞いでいるのだから、沈黙は仕方ない事だが気まずい。
 コイツは昨日の俺を見てどう思ったのだろう?
 厄介な奴だと思ったに違いない・・・。
「俺、昨日の事は何とも思っていないですよ」
 ビックリした。
 心が読まれているのかと思った。
「それに誰にも言わないですから安心してください」
 先回りされている。
 ヘラヘラと人懐っこい笑顔をしている所為で鈍そうな奴だと思っていたのだが、コイツは結構鋭い。
 抱き枕を引き受けた理由にしてもそうだ。
 誰かか一緒でないと眠れない事。何振り構っていられないほど切羽詰っていた事。
全て見抜かれていた。
 俺は光を笹を食べている可愛いパンダ≠セと思っていたのだが実は肉食のパンダ≠セったのかもしれないな。
 そんな事を考えていた時だった。
 ガチャン!
 鍵が開けられる音がした。
「ご免ください」とも「お邪魔します」ともなく、無遠慮に入ってくる人間が誰なのか姿を見なくても分かった。
 予想したとおりの人間が姿を現す。
 志野原《しのはら》 晃《あきら》。俺より一回り小さい小柄な体格。俺とは違って真っ黒な髪に真っ黒な瞳。アイドル見たいな顔立ち。
 一見可愛い系のマスコットのようだが、性質が悪い。
 腹の黒さを顔の細工の良さで誤魔化しているような奴だ。
 コイツの本性を知らない奴は、か弱い小動物だと思っているに違いない。
 だが、見た目に騙されて下手に近寄るととんでもない目に合わされる。
 俺も大概無茶する方だが、コイツほどじゃない。
 俺は直ぐにキレる奴だが、コイツは既にキレてる。
 目的の為なら手段はいとわない犯罪者一歩手前・・・いや、捕まっていないだけで既にあちら側の人間だ。
 色々言葉を並べて見だが、要するに、俺はコイツが嫌いなのだ。
「ビックリした。知らない人が居るから部屋間違えたかと思ったよ」
 部屋が違っていたら鍵が開くかよ。惚けてんじゃねーぞガキ。
「来客中だ。とっとと帰れ!」
「部屋に他人を入れるのあんなに嫌がってたのにね。女に飽きて男に走ったわけ?」
「だとしたら誰よりも先に手前を犯してやるよ」
 言ってから後悔した。
 コイツはこんな言葉で怯むような奴じゃないのだ。それどころか増長する厄介な生き物だった。
「へぇ、嬉しいな兄さんとだったら気持ちいいSEX出来そう。勿論兄さんが女役でだけど」
 ほらな? 期待を裏切らないナイスな答えを返してきやがる。
「俺とお前のウエート差を考えろお前に俺が押さえ込めるかよ!」
「別に無理して押さえ込む必要なんてないんじゃない? 要は身体の自由さえ奪っちゃえばいいんだから。あんたもそう思うだろ?」
 急に振られて光は「はあ・・・」とどちら付かずな返事をした。
「今は兄さんより気になる奴がいるから、いいんだけど」
 世の中には不運な奴がいるな。コイツに気に入られたら、今後の人生狂いまくりだろう。
「どんな事をしても欲しいんだよね」
 嬉しそうに微笑んだ。
 俺には悪魔の微笑みに見えた。
「なら、さっさとそいつの所にでも行けよ」
「そうだね」
 同意したのに、何故か玄関ではなくベッドのある奥の部屋の方へ歩いて行く。
「おい!晃何処行くんだ!?」
 俺の言葉を無視して部屋へ入っていく。
「おい光! あのバカ引き摺って来い。二、三発なら殴っていいし気絶くらいならさせていいから・・・」
「そんな手荒な事出来ませんよ」
 光が行き渋っていると部屋から晃が何かを持って出てきた。
 見れば携帯だった。
 たが、それは俺の物ではなかった。
「番号交換しようねv」
「おい! 何しているんだ光の携帯で!」
 晃は手早く番号交換を済ませて光に放り投げる。
「何慌ててんのさ兄さん。さっき言ったろ今気になっている奴が居るって。兄さんのお気に入りに手なんか出さないよ」
「ならなんで・・・」
 晃は意味ありげに笑った。
「さて、もう行くかな・・・俺は志野原晃。君、名前は?」
「稔川 光です」
「光君、兄さんの事可愛がってあげてね」
 可愛がるってどういう意味だよ!
 晃はヒラヒラと手を振りながら玄関へ消えて行った。
「やっと帰りやがったかあのガキ」
「弟さん・・・なんですよね? 兄さんって呼んでいたし・・・」
 ああ・・・。
「似ていないって言いたいんだろ? アイツは本妻の子供。俺は妾の子共なんだよ」
「それって・・・」
「腹違いの兄弟って奴だ。別に珍しい話でもないだろ?」
「すみません! 余計な事話させてしまって・・・」
申し訳無さそうな顔をして俯いた。
やっぱりコイツ可愛いな・・・
「大した事じゃない。気にするな」
 招かざる客の乱入のお陰で光に感じていた気まずさは何時の間にか消えていた。
「光」
「はい」
「改めて頼む。俺の抱き枕になってくれ・・・」
 俯いていた顔を起こし、優しい笑顔で快諾してくれた。。

   ◆◇◆

 光は土曜日曜と店の手伝いを休んでまるまる全ての時間を俺に付き合ってくれた。
 何処にも行かず、何をするわけでもなく、ただ光と横になっていた。
 ずっと動きっぱなしというのも辛いが、何もせずにじっとしているのも相当辛いはずなのに文句の一つも言わずに俺と寝てくれた。
 友達でもなんでもないただ同じ学校に通っているだけの人間にここまでしてくれるなんて良い奴だ。
 人間は何かをする時必ず見返りを求める。
 良い人面《づら》で近寄ってくる人間は、大概が金か俺自身が目当てだった。
 金なんかいらないと言う光のような人間を知らない。
 俺は光の事が分からなかった。
「先輩、俺帰りますね」
 食事もそこそこに惚けていた俺は、光の声で我に返った。
「何だ? 何か言ったか?」
「聞いていなかったんですか? 制服とか家なんで、もう帰りますって言ったんですよ」
 ああ・・・今日は月曜だったな。
 名残惜しいが学校を休ませ部屋に軟禁する訳にもいかず、食事の後片付けを済ませ玄関に向かう光の後ろを重い溜息を吐きながら付いて行った。
 玄関に座り込みスニーカーを履いている広い背中に向かって、帰るなと言いたい衝動をなんとか堪える。
 ああ、これで安眠の日々は終わりかと、絶望的な気分になり、大きな溜息が自然と落ちた。
 スニーカーを履き終えた光は俺に向き直ると、一瞬何か考えるように視線を俺から外し、斜め下を見、直ぐに視線を俺に戻した。
「今後は、生徒会や店の手伝いとかでここに来るのが二十三時以降になるんですけどいいですか?」
 驚いた。
 光は今後も来てくれるつもりでいる。
「遅すぎますよね? やっぱ駄目ですよね・・・」
「そんな事無い! 二十四時だろうと一時だろうと構わない」
 光の二の腕を掴み、詰め寄ってしまった。
 俺の慌てぶりに、光は驚いた顔をしている。
 ひ・・・引いただろうか?
 いや、絶対に引いたに違いない。
 気まずさに顔を引き攣らせながら、掴んでいた二の腕を離した。
「・・・だから・・・その・・・来てくれ」
 語尾が消えそうな声になった。
「はい」
 笑顔で返事をし、ドアを開けて出て行こうとするのを見て、俺は一歩踏み出していた。
 行かないでくれ、帰らないでくれと、言葉が喉まで来ているのに出てこない。
「ちゃんと学校に来て下さいね」
 やはり優しい笑顔で言われ、俺は何も言えなかった。
 光の姿がドアに阻まれ見えなくなり、ゆっくり、ゆっくり閉まって行く。
 足音が遠くなるのを聞き、ベッドの有る奥の部屋へと向かった。
 ベッドに倒れこむように横になる。
 さっきまで光のいたベッド。
 まだ、あの甘い匂いが残っている。
 とても気持ちの良い落ち着く匂い。
 光の匂いを感じながら布団を抱きしめていると、玄関の開く音が聞こえた。
 玄関からリビングを抜け、ベッドのある部屋へと人の気配がどんどん近付いてくる。
 扉の開き誰かが入って来た気配を感じるが、身体がだるくて起き上がれない。
 どんなに動かそうとしても全然動かなかった。
 まるで金縛りにでも掛かっているかのように・・・。
 仕方なく目だけで気配のする方を見る。
 ズボンが見える。見覚えのあるズボン。
 さっきまで見ていた・・・。
「光なのか?」
「はい」
 返事をするとベッドに腰を降ろした。
「お前帰ったんじゃないのか?」
「先輩が心配で・・・」
 そう言うと光の手が俺の頭を優しく撫でた。
 帰ったとばかり思っていたので戻って来てくれて正直嬉しかった。
「学校はどうするんだ?」
「どうでもいいです。学校なんて・・・」
 ・・・・・。
 光はこんな事を言う奴だっただろうか?
 変な違和感を感じた。
 ―――ズルリ。
 身体が落ちる気がした。
 ベッドに横になっているのに?
 ビクッ!
 身体が震えた。
 冷や汗をかいているようだった。
 心臓がバクバクいっている。
 さっきまで全く動かなかった身体が、何故か動いた。
 身体を起こしベッドの周りを見渡す。
 誰も・・・居ない・・・?
「光? 光!」
 家中に聞こえるように大声で呼んでみるが、返事はない。
 やはり誰も居ない。
 さっきのアレはなんだった?
 気配はあった。感触もあった。声も聞こえた。
 だが、誰も居ない・・・。
 白昼夢だったのだろうか?
 幻覚だったのだろうか?
 分からない・・・。
 分からない・・・。
 分からない・・・。
 俺は自分に恐怖した。

◆◇◆

 俺は制服に着替えると、水を身体に流し込み学校へ向かった。
 身体は何時も通りだるく、足も重い。
 だが、一秒でも早く学校へ行き光に会いたかった。
 光に会えばこの不安感を拭い去る事が出来るような気がした。
 歩みが次第に速くなる。
 幾つかの角を曲がり、大通りに出る。
 何時もより時間が早い所為か、学校へ向かう人間が疎らだ。
 それでも何人かの人間に声を掛けられた。
 今日は答えてやる余裕が無い。無視して足早に学校の門を潜った。
 玄関で上履きに履き替えようとしたが、先日上履きのまま帰ったため下駄箱には靴が入っていた。
 俺は仕方なく来客用のスリッパを履き一年の教室のある四階をうろついた。
 光が何組なのか分からなかったので、その辺に居た人間を捕まえて訊いてみると、生徒会をしている所為か、光の名前は誰もが知っていた。
 教えられた一年C組の教室に行って見たが、光の姿は見当たらなかった。
 クラスの人間に光の行方を訊くと、生徒会の仕事で朝は殆ど居ないと言われた。
 一分一秒でも早く会いたいと言うのに・・・苛立つ気持ちを抑えて出直す事にした。
 一時間目が終わり光のクラスに向かった。
 だが、光の姿は無かった。
「おい、あんた。稔川は?」
「あっ! 志野原先輩! 稔川君ならさっき先生に呼ばれて出て行きました」
またか・・・。
「あの・・・稔川君に用があれば伝えておきましょうか?」
 俺に質問された女がおずおずとそう言った。
「いや、いい」
 俺は諦めて次の休み時間に掛ける事にした。
 二時間目、三時間目と光の教室に通ったが、その度光は何らかの用事で居なかった。
 不安感とイライラが募り爆発しそうだった。
 何故同じ学校に居るのに会えないんだ!
 夜中に光が来てくれるまで会えないのか?
 それまで我慢しなければならないのか?
 そんなのは・・・堪らない・・・。
 俺は精神の高揚を抑えようと両手で顔を押さえ込むようにして目を閉じる。
「おい、志野原!」
 うるさい! 俺に話し掛けるな!
「一年が呼んでいるぞ」
 弾かれたように教室の出入り口を見る。
 端整な顔に人懐っこい笑顔を浮かべた男が立っていた。
 俺は足早に光のもとに近寄った。
「すいません先輩。何度も足を運んでいただいたみたいで・・・」
 光の話をさえぎり、腕を掴んで歩き出した。
「せ、先輩?」
 光は困惑しながら引き摺られるように歩き出す。
 階段を上り屋上へ出る扉の前までやって来た。
 懐からピッキング道具を取り出し手早く鍵穴に差し込む。
「先輩何しているんですか!?」
 ガチャ。
 鍵が開くのを確認すると、ドアを開けると同時に光を引っ張り込む。
 誰も居ない屋上に出て、漸く安心して触れる事が出来た。
 肩に、腕に、その存在を確認するように触れた。
 締まった筋肉。硬い身体。
 ちゃんとした質感がある。
 ああ・・・
 本物の光だ。
 朝見た光の幻覚にも感覚はあったが・・・いや、あった気がしただけかもしれないが、全然違っていた。
 安心して力が抜けた。
 寄り掛かるように光の胸に倒れ込む。
 光は何も言わずに肩を抱いて支えてくれていた。
 甘い匂いがする。
 光の匂いに包まれて少しだけ泣きたい気分になった。
 昼休みをまるまる光と一緒に居られたお陰か、俺の精神はすっかり落ち着いた。
 五・六時間目を受けたには受けたが、何をやったか覚えていない。
 授業中、ぼんやりとただ光の事を考えていたような気がする。
 放課後、光の顔を一目見ようと、一階をうろうろしていると訊いても居ないのに見ず知らずの一年どもが光の居場所を口々に俺に知らせてきた。
 教えられたとおりに生徒会室へ行き、無遠慮に扉を開いた。
「あれ? 先輩どうしてこんな所に? 生徒会に何か用ですか?」
「いや・・・」
 夜になれば家に来てもらえるというのに、一日に何度も会いに来ておかしいような気がした。
 何か会いに来た用事を作ろうと考えたが、良い理由が何も思いつかず、仕方なく昼の事を持ち出す。
「昼は悪かったな・・・俺の所為で飯食いそびれただろ・・・」
「そんな事を気にしていたんですか? いいですよそんな事」
 気にしていない訳ではないが、それよりも何よりも光の顔が見たかっただけなのだ。
「あの・・・」
 俺の言葉を遮るように生徒会室の扉が開かれた。
 眼鏡を掛けた男と、そいつを挟むように左右に男が一人ずつ居た。
「稔川君その人は?」
 俺には目もくれず、光に問いただすように訊く。
「はい、会長。こちらの志野原先輩は、俺の落し物をわざわざ届けてくださったんです」
 生徒会以外の人間が生徒会室に居る理由が必要だったのか、光は嘘を吐いた。
 光の言った事を信じたのかいないのか、眼鏡の男は睨め付けるように俺を見た。
 明らかにこの男の視線には嫌悪感があった。
 この男とは初対面(?)のはずだが、悪い噂を色々聞いていて、俺の事が嫌いなのだろう。
「稔川君そろそろ会議を始めようと思います。其方の方には引き取ってもらって下さい」
 光は俺の腕を掴み生徒会室から連れ出した。
「話の途中なのにすみません。夜は、ちゃんと行きますから」
 そう言うと、生徒会室の中に消えて行った。
 パタン。
 扉が閉じた瞬間。何故か、光に拒絶されたような気になった。
 これから会議があり、眼鏡の男に俺を追い払えと言われたからそうしただけで、光の意思とは関係ないと分かっているのに・・・
 グラグラする・・・。
 まただ・・・。
 頭の中を何かが過ぎった気がする。
 何かを思い出したような気がする。
 気持ち悪い。
 頭の中に手を突っ込まれて記憶を引き摺り出された感じだ。
 ずるずると・・・
 でも、何を思い出したのか分からない。
 気持ち悪さだけがハッキリと残っている。
 誰も居ない廊下に崩れるようにうずくまる。
 気持ち悪い・・・。
 吐きそうだ・・・。
 助けてくれ・・・。
 光・・・。
 壁にもたれるようにその場に崩れ落ちた。
 ひやりと冷たい壁の感触を頬で感じながら、身体が動くようになるのただじっと待った。

   ◆◇◆

 気持ち悪さを引き摺ったまま、家に帰った。
 何もする気になれず、着替えもせずにそのままベッドへ倒れ込む。
 ぼんやりと天井を見つめた。
 光が来るまで、あと六時間ぐらいある。
 永遠のように長い時間だ。
 身体を翻し、うつ伏せになるとベッドから光るの匂いがした。
 どうしてアイツの匂いはこんなにも甘いのだろうか?
 そしてこんなにも俺を落ち着かせるのだろうか?
 布団を抱きしめると、光に抱き付いている気になる。
 早く会いたい。
 六時間という時間が、もどかしい。
 光・・・。
 ガクッと落ちる感覚に襲われ、意識が覚醒する。
 ・・・・?
 俺は寝ていたのだろうか?
 時計を見ると一時間だけ時が経っていた。
 頭は重かったがあの気持悪さは消えていた。
 喉がカラカラだったので水を飲もうと身体を動かす。
 キッチンへ行き冷蔵庫を開ける。
 チーズとビールが三本。それにミネラルウォーターが一本あるだけだった。
 水を取り出しそのまま飲んだ。
「これじゃあまた光に呆れられるな・・・」
 食欲はやはり無かったが、食べ物を買いに行こうと思った。
 食料が冷蔵庫一杯に詰まっていたら光が喜んでくれる。何故かそう思ったのだ。
 財布を持つと近くのスーパーに向かって歩き出していた。
 スーパーへ行き、袋一杯に買ってきた物を冷蔵庫に詰め込んだ。
 時計を見ると二十時半だった。
 光が来るまでまだ大分時間がある・・・
 折角買ってきた食材だ、俺は兎も角光は腹を空かせてくるかもしれない。
 暇潰しもかねて晩飯の用意を始めた。
 まともに飯を作った事など一度もなかったが、手先は器用だし、要領もいいから作り方さえ分かっていればそれなりのものを作る自信がある。
 飯の材料を買う途中で買った料理の本を片手に、作り始めると意外と面白かった。
 きっと光の為に作っているからだろう。
 これが、自分の為の飯作りだったら多分・・・いや、確実に面白くも何ともないだろう。
 他人の為に何かをする楽しさを感じながら一品。また、一品と全部で五品も作ってしまっていた。
 飯の支度も終わり、やる事も無くなり風呂に入る事にした。
 着ていた物を水のはってある洗濯機に放り込むとバスルームに入った。
 シャワーを浴びながらある事に気が付く。
 さっき作った飯。
 アレは俺が初めて人に作った料理だった。
 光は食ってくれるだろうか?
 いや、食ってくれなくてもいい。ただ喜んでくれさえすれば・・・。
 そんな事を考えていた時だった。
 インターフォンが鳴った気がした。
 晃なら勝手に入ってくるはずだ。
 インターフォンなんか鳴らすばすが無い。
 光が来るにはまだ時間が早い。
 誰だ?
 こんな時間にセールスも無いだろう?
 ピンポーン・・・ピンポーン・・・。
 催促するように鳴る。
 うるさい!
 俺はタオルを一枚巻いて渋々受話器を取った。
「はい?」
 鬱陶しそうに出ると、受話器の向こうから優しく穏やかな声がした。
『稔川です。ロビーの鍵開けてもらえますか?』
 俺は慌てて、1階ロビーにある玄関のキーロックを解除した。
 受話器はまだ繋がったままだった。
「玄関の鍵も開けておく。勝手にあがっていいから・・・」
『分かりました』
 光の返事を聞き受話器を元に戻すと、俺は慌てて着るものを取りに寝室へ向かった。
 ここのエレベーターは結構早いのだ。
 急いで着替えなくては裸で光を出迎える事になってしまう。
 ただでさえ男の添い寝なんて気持ち悪いバイトをさせているのに、裸で出迎えなどしてしまったら気持ち悪さを通り越して恐怖を与えかねない。
 光が二度と来てくれなくなったら困る。
 それだけは絶対に避けなくてはならない。
 ポタポタと拭ききれていない滴が落ちるが、そんな事に構っている余裕は無く、足早に寝室に入ると勢いよくクローゼットを開けた。
 見事に空だった。
 ここ数日不眠症と食欲不信からか何もする気になれず、クリーニング屋に服を出し尽くした事を思い出した。
 まだ、着るものが残っている事を祈り、今度は箪笥を上から順に開けていくが空に近い状態だった。
四段目を開けようとした時・・・
 箪笥を慌てて引っ張った所為か途中で引っ掛かってしまった。
 こんな時に!
 押しても引っ張っても動かない。
 仕方なく腕だけを引き出しに突っ込んで手に触れた物を適当に引っ張り出した。
 出てきたのは白いワイシャツだった。
 濡れた身体のままそれを着ると次は下に履く物を探した。
「先輩?」
 不意に呼ばれ、俺の身体は硬直し、頭はパニックを起こした。
 どうしたんだ俺は?
 人妻の家に転がり込んでいた時に、旦那が帰って来たって動揺なんてしなかった。
 裸なんか色んな奴に見られてきた。
 それどころかSEXしているところだって見られた事がある。
 どんな時でも何も感じなかったのに・・・
 そんな俺が焦っている。
 裸で出迎えは免れ、恐怖を与えずに済んだが、裸よりも現状が良いとも悪いとも言えない。
 裸に白いワイシャツだけを着て、おまけに身体中濡れている。
 これが女なら凄くいやらしい格好だ。
 なんて格好をしているんだろう俺は・・・。
 一体何なんだこの気恥ずかしさは?
 いっその事男らしく、下半身にタオル一枚巻いている方がマシだったかもしれない。
 いや、だからそれは恐怖を与えかねないから・・・
 待て、落ち着け俺!
 俺も光も男なんだから別に意識する必要は無いんじゃないか?
 ドクン。ドクン。
 心臓がうるさい。
 頭はパニックを起こしたままで、振り向く事も出来ない・・・。
「先輩。お風呂に入っていたんですね。すみません。俺が早く来たばっかりに出る羽目になって」
 風呂なんかどうでもいい。お前が来るまでの暇潰しだったんだから。
 早く来てくれて本当に嬉しいんだ。
「俺、キッチンの方に居ますから着替えて来てください」
 光はそう言って寝室のドアを閉めた。
 たっ・・・助かった。
 危険が迫っていたわけでもないのに何故かそう思い、胸を撫で下ろした。
 五段目の引き出しからパンツとジャージを見つけワイシャツにジャージと言う妙な出で 立ちで居間に行くと、光は俺の作った料理を見つけ感嘆していた。
「凄い! どうしたんですかこの料理?もしかして先輩が?」
「まぁ・・・」
「食欲が出てきたんですね?」
 それは違う。
 お前の為に作ったんだ―――他の人間になら簡単に言えるセリフが言えなかった。
「嫌いなものが無ければ食えよ」
 そう言うのが、精一杯だった。
 光は優しく微笑むと「はい」と言った。
 料理を食べている間中光は「ウマイ」とか「美味しいです」とひっきりなしに言った。
 相変わらず飯の味は何も感じなかったが、光があまりにも美味しそうに食べるものだから、何時も以上に食が進んだ気がした。
「もっと遅くなると思っていたんだがな・・・」
「はい。もっと遅くなる予定でした。でも、先輩の様子が気になって兄に店番押し付けて来ました」
 光は悪戯っぽく笑った。
「気を使わせたな」
 光は何も言わず、ただ微笑んだ。
 食事を食べ終える頃には、二十三時を回っていた。
 光は用意してきたらしい自前のパジャマに着替えた。
「前回ジーパンのまま寝たら結構苦しかったんですよね」
「あはは」と笑い光は頭を掻いた。
 俺は何気なく冷蔵庫からビール取り出し飲もうとすると、俺の手からビールを取り上げようと光は手を伸ばした。
「先輩!」
「何だよ」
「駄目ですよご飯もちゃんと食べていないのにお酒なんか飲んじゃ!」
「平気だよこの程度の酒なら」
「身体壊しますって!」
 俺からビールを奪い取って身長が高い事をいい事に、腕を真っ直ぐ上に伸ばし俺の手が届かないようにした。
「返せよ!」
 何故か俺はムキになって取り返そうと、光の腕に手を伸ばした。
「ちょっ・・・先輩危ないですよ!」
「返せ!」
「あっ!」
 取り合っているうちにビールを頭から被ってしまった。
 シュワシュワと炭酸の弾ける音が頭の天辺から下へ下へと降って行く。
 アルコールの匂いが鼻に付いた。
「す、すいません!」
 光は慌ててタオルを取りに行った。
 あーあ。
 最後の一枚だったのに・・・。
 これで着るものがなくなってしまった。
 タオルを持って光が戻って来る。
「すみません」
 申し訳無さそうな顔をしながら、頭やら顔やら丁寧に拭いた。
「気にしなくていい。俺もムキになって悪かったよ」
「着替えは・・・」
「ない」
「はい?」
「クリーニング屋に取りに行かないと無いんだ」
「それじゃぁ・・・」
 そう、俺は今日上半身裸で寝なくてはならなくなった。
「あの、替わりに俺のを着てください」
 慌てて自分の着ているパジャマを脱ごうとする。
「いいよ、それはお前が着とけ」
 光の生肌の胸に顔を埋めて眠るのはしんどい気がする。
「いいから寝ようぜ」
 布団に入れば裸なんて見えないだろう。
 そう思いベッドへ向かった。
 おずおずと光は付いて来た。
 俺がベッドに入ってからも、光はベッドの横に立ち尽くしたままだった。
「どうかしたか?」
「いえ・・・」
 顔は笑っているが明らかに緊張している。
 緊張するなよ。
 俺まで緊張するじゃないか・・・
「早く入れよ」
 催促されて漸くベッドに入ってきた。
 ダブルサイズのベッドに大の男が二人身体を強張らせて横になっている。
 端から見たら、さぞ滑稽だろう。
 俺が第三者なら笑うところだが、残念な事に俺は当事者だった。
 空気が重く感じる。
 このまま変に距離をとっている方が気まずい。
 俺は思い切って光に抱きついた。
 抱きついてから後悔した。
 心臓がうるさい。
 ドキドキしているのが光にばれるのではないかと焦った。
 光の手が恐る恐る俺の肌に触れる。
 たどたどしい手つきで、背中に腕を回した。
 その手つきがかえって、緊張を煽る。
 童貞小僧でもないのに、こんなに緊張している自分に驚く。
「すみません」
 急に光が謝った。
「先輩と寝るの三回目なのにまだ慣れなくて・・・心臓うるさいでしょ?」
 確かに光の心臓は早鐘を打っていた。
 急に笑いが込み上げて来た。
「先輩?」
「悪い。何だかな、俺たちただ寝るだけだって言うのに・・・まるで初夜を迎える恋人みたいにドキドキしてバカみたいだな」
 声を殺して笑う。
 笑っているうちにそれは次第に嗚咽に変わっていった。
 涙がこぼれる。
 堪らなくなって光のパジャマに力いっぱいしがみ付いた。
 何故泣いているのだろう?
 訳が分からない。
 光は何も言わずに優しく頭を撫でてくれた。
 今夜も光の腕の中で泣いている自分がいた。
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