優しい匂い
光サイド-1-
志野原 貢【しのはらみつぐ】という名前は入学当初から耳にしていた。
彼に関する噂は様々なものであったが、噂というものは
人から人へ伝わる度に人の悪意や希望などを取り込み、原型を留めていない事が多いので、話半分以下程度に聞いていた。
そんな校内一の有名人を見つけるのにさほど苦労はしなかった。
彼が動けば女生徒はおろか男子生徒もざわつき、見えない距離だったとしても、居る事は分かった。
どんな人なんだろうと一応気にはなったが、用もないのに近付くのもどうだろうかと、見に行く事はせず、同じ学校に通っているのだからそのうち廊下か何処かで擦れ違えるだろうとその程度にしか思っていた。
正直、その時はまだ彼の事は瑣末な問題でしかなかったから。
入学してから一ヶ月が過ぎた頃、俺は体育の授業で右肘を擦り剥いてしまい保健室に足を運んだ。
保健の先生がテキパキと治療をしていると背後から扉の開く音がした。
先生は軽く溜息をして「志野原、また来たのか…」そう漏らした。
俺は弾かれたように振り向くと、保健室の出入り口にダルそうに立っている人物がいた。
愕然とした。
この人が・・・
志野原貢・・・
ずっと会いたいと切望していた人との思いがけない再会に、俺は息をするのも忘れ、ただただ目の前の人から目を放せずにいた。
色素の薄い鳶色の髪と瞳。
整った一つ一つのパーツの中で一番印象的な切れ長の瞳が、俺をあの夜へと戻した。
そう、あの人に出会ったのは今から二年程前の事だ。
当時14歳だった俺は表立ってバイトをする事は出来なかったため、店の手伝いをして小遣いを稼いでいた。
その日は親戚の叔父が経営しているクラブに酒を卸しに兄の竜也【たつや】と行っていた。
裏口から酒瓶の入ったケースを運んでいると奥から叔父の竜三が「お前達〜v」っと言いながら両手を広げて近寄って来た。
俺と竜也兄さんは訳が分からず顔を見合わせた。
「いい所に来てくれたよ!これぞ天の助けと言うものだな。僕は日頃の行いがいいからね、神様はちゃんと知っているんだv」
一人で盛り上がっている叔父を放っといてケースを厨房の方へ運んだ。
「酒も入っていないのになんであんなに何時もテンション高いんだろうな、あのオッサン・・・」
竜也兄さんは軽く笑いながら言った。
「何時も楽しそうで良いよね」
俺達が笑っていると叔父は何かを手に抱えて近付いてきた。
「こんな所にいたのか、ほら、コレ」 ズイっと差し出されたモノは衣服だった。
「なんですかコレ?」
「何って…コレが野菜や果物に見えるのか?」
いや…そうではなく。
差し出されたモノが野菜でも果物でもなく衣服で、しかもこの店の制服だという事は見れば分かる。何故店の制服を俺達に差し出したのか・・・それが知りたかったのだ。
察するに働いてくれと言う事なんだろうが真意の程を知りたいのだと叔父に言った。
「お前は相変わらず感が良いね。その通りだ」
叔父は実に嬉しそうにニコニコ微笑んでいる。
聞けば今日は従業員が風邪やインフルエンザで半分の人数になってしまって困っていると言う事だった。
「配達はここで終わりだから俺はいいけど、光のやつはまだ中坊だぜ。いいのかよ労動基準法とか…」
「何言ってんだ。子供が家の手伝いをするのは当たり前だろう?」
俺達は何時から叔父さん家の子供になったんだろうかと、竜也兄さんと顔を見合わせた。
「父に断りを入れておかないと…」
「兄貴には俺の方から電話しておくからお前達は早く着替えた!着替えた!」
急かされ俺達は更衣室に行き渋々着替え始めた。
白いシャツに黒いネクタイ、ベスト、ズボン、ロングエプロン一見ギャルソン風の制服に身を包むと見慣れない自分の姿に違和感を感じた。
鏡の前で考え込むようにして自分の姿を見ていると、竜也兄さんはからかうように「バーカ、自分に見とれてんなよ!」笑いながら言って、更衣室を出て行った。
追いかけるように俺も更衣室から出た。
「待ってよ!」
歩を速めて竜也兄さんの隣に並んだ。
「俺別に見惚れていたわけじゃ…」
「そうかよ…」
竜也兄さんは小さな子供がやった他愛も無い失敗を見て、微笑む親のような表情で俺を見た。
兄さんは俺に対してよくこの表情を見せる。
その度に俺は兄さんの中で何時まで経っても小さな子供のままなんだなと思う。
初めて会った6歳の時のままだと・・・
そんな事を考えているとフロアに出る扉の前まで来ていた。
竜也兄さんは重量のある重い扉を軽く開けると音の洪水に飲み込まれた。
隣にいる竜也兄さんの声すらちゃんと聞き取れない。
声が届かないので兄さんは手で俺に先に入るように促した。
薄暗いフロアに一歩足を踏み入れると眩暈がした。
聴覚の正常を奪う大音量の音。色々な人間の吸っているタバコの煙。フロアに充満している人の匂い。
空気が淀んでいるように感じた。
俺には向かない場所だな・・・
そう思いながら叔父の姿を探すためフロアをグルリと見回した。
あれ?
何かが目を引いた。
気になった方を見てみた。
沢山の人の中、気になる人物がいた。
店内は暗く顔はよく見えないが、目が奪われた。
目が釘付けになっている俺の耳元で竜也兄さんは
「華のある奴だな」と言った。
確かにその通りだった。
その人の周りだけ空気が違って見えた。
トップスターと呼ばれる人達が持つオーラみたいなものを発しているんだろうと思う。
騙し絵のようにその人だけが浮き上がっているように見える。
俺は叔父さんを探す事もせずに、ただただその人を見続けた。
右腕の袖が引っ張られ、反射的にそっちに向くと、叔父の姿を見つけた兄さんは叔父の居る方向を指し示した。
俺はあの人から目線を外し、叔父の居るカウンターの方へ向かった。
フロアと違ってカウンター付近はライトをちゃんと当てていたので人の顔を識別するには十分な明るさだった。
音もフロアに比べれば静かなもので会話は何とか聞き取れる。
俺と兄さんは酒屋の息子なだけあって酒の名前はそれなりに知っているが、臨時の素人バイトにカクテルを作る事が出来るはずもなく、俺はとりあえず氷を砕く係り、竜也兄さんにウエイター係りが言い渡された。
必死に氷を砕いていると「氷!」と呼ばれ、手元を見ていた目を上げるとカウンターの席にあの人が座っていた。
ドキッとした。
さっきは暗がりで距離も何メートルかあったのでよく見えなかったが、近くで見ると綺麗な人だった。
髪が長く、線が細いので女性のようにも見えるが、多分男の人だろう。
眼も髪も色素が薄く、軟らかいと言うよりも儚い印象を受けた。
「氷!!」
呼ばれて慌てて俺は氷を手渡した。
振り返り、再びあの人へ視線を戻すと、三人の女性に囲まれていた。
三人とも眼のやり場に困るような露出度の高い服を着ている。
あの人に好意を持っているのだろう。気を引こうと一生懸命話し掛けている。
相槌を打つどころか目すら合わせない。
ピクリとも動かない表情。
何の音も耳に届かないというように、ただ遠くを見つめた目が、芸術品としてはとても綺麗なモノだろうが人としては寂しい感じがした。
持ち場へ戻ろうと、あの人の前を通り過ぎた。
「…四人で…ね?いいでしょ?」
何かを交渉しているようだった。
持ち場に戻りまた、氷を砕いているとあの人は席を立った。
あの人の向かう先を目で追うとトイレのある方だった。
あの人がいなくなると3人の女性は1人抜けたスペースを埋めるように身体を寄せ合いながら話し始めた。
「今日、シノお持ち帰り出来ると思う?」
「絶対する!!」
「シノとH出来たら自慢出来るよねv」
俺は自分の耳を疑った。
シノと呼ばれているあの人と女性たちが交渉していたのは、四人で行為に及ぶかどうかという事だったらしい。
しかも理由が自慢する為だと言う。
自分達を着飾る宝石やブランド品のようにシノさんを見ている。
だからなのか?
最初シノさんを見た時も、今さっきも人に囲まれながらもあの人が寂しく見えたのは・・・
シノさんもきっと気付いているのだ。
自分がどういう風に思われているか・・・
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